人が働くのは、まず、楽しみのため。

仕事そのものも、社会に有益なので生きがいとなるが、

自分の個性や得意を使って、

自分でしかできないことをする。

それが働くことだ。

 

他の人で代替できること、

あるいは、AIや人工知能や機械で変わりができることを

人がわざわざすることもない。

 

対人的なサービスは、

単純化され、マニュアル化された業務は、ロボットができる。

しかし、こころの交流や、精神的なつながり、

スピリチュアルな性質を要する仕事は、ロボットではできない。

 

思いやりや好みや尊敬を必要とする行動、

例えば、愛情などはロボットではできない。

 

一方的に愛する行為、

ペットなどへの愛は、

ペットがロボットになっても代わりができる。

ロボットも学習するから、同じ過ちは犯さない。

 

相互的に発展していく愛は、現在は人にしかできないが、

未来のいつか、

外見や肌触りが人と区別できないロボットが誕生すると、

人よりもロボットを好む人間が多くなるかもしれない。

ロボットの方が、人よりも扱いやすいためだ。

ロボットの行動は予期できるからだ。

 

人どうしが愛し合うのは、

とても苦労が多く、失敗が常。

相互理解は、限界がある。

相手の行動が予期できない。

自分の感情さえも、制御不能。

こんな面倒を避ける人たちが多くなるかもしれない。

 

人工臓器移植も簡単になり、

老化した脳神経細胞の更新もできるようになると、

人の寿命は延びるだろう。

 

そんな時代になれば、

生きるとは、どういうことか、

人は真剣に考えなくてはならなくなる。

 

生命という楽園に生まれ、

愛や研究や開発などの精神的冒険を味わい、

満足して、死を迎えるという、

寿命たかだか百年程度の現在に比べて、

死を迎えることさえ、簡単にできない。

選択しなくてはならない。未来。

 

いつまでも生きたいという願いに執着する人が増えるかもしれない。

おいしいものをいつまでも食べたい人たちだ。

 

私は、

老いて死ねる、今の世の中の方がいいと思う。

つまらぬ願いを抱かずに生きれる。

 

どんなおいしいものも飽きる。

 

楽園や天国は、

短いから意味がある、と思う。

 

死を選ばなくてはいけない。

つまり、

自死が普通となる。

未来の人類が、

いくらか、可哀想になる。