盲ろうについて、考える。

生まれたときから、目も見えず、耳も聞こえない人のことです。

 

昨日の新聞に、盲ろうの森敦史さん(26歳)の記事があった。

今春、大学院に進んだ。

「小学生のころは、自分が何者なのか、よくわからなかった。

中学でやっと、自分と他者の違いに気づき始め、周りの人は

自分よりたくさんの言葉を知っているんだと理解できた」と手話で語る。

 

盲ろう者が経験するのは、

視覚と聴覚以外の感覚、触覚や味覚など、皮膚表面の感覚だけ。

直接に触れるものしか、分からない。

スキンシップだけの世界。

 

普通の人に比べ、幼児から子供時代の経験が

非常に狭くなる。

言語を覚えるのは、とても難しい。

視覚と聴覚が使えない。

例えば、左右は簡単だが、上下や前後は難しい。

奥行きや高さや空間認知は難しい。

空の広がりと言われても、何のことか分からないだろう。

 

味覚が一番分かりやすいのだろうか。

 

経験がないから、言葉を理解するのに時間がかかる。

森君は、「現実と物語りの違いを理解するのに、苦労した」と語る。

 

盲ろうにとって、現実も物語りも、共に、自分の実感として

感じられない世界。

同じように作り物に感じられるから、区別が難しい。

 

健常者に、夢と現実の区別が難しいのと同じ。

感覚遮断の実験空間の中に、健常者を閉じこめると、

ほぼ皆、現実と夢の区別ができなくなる。

 

普通の人が、孤独やさびしさによる不安を感じるとき。

目も見え、耳も聞こえるわけだから、

テレビの映像も、外の景色も見える。

隣近所の騒音も聞こえる。

だから、完全に孤立している訳ではない。

 

無数の人々に取り巻かれた孤独。

だから、当人のこころの持ち方で寂しさも変化する。

 

盲ろうの人は、

皮膚感覚や触覚以外は手がかりがないので、

 

触るものがないと、

何もない世界。

完全な孤独に近い。

 

周りの人とのコミュニケーションやつながりが

世界との唯一の接点。

 

現在、技術開発で、

メールなどコミュニケーションも可能になっているという。

 

一人で外出するのは、

大冒険だろう。

ここからは、私の想像だが。

 

多分、プラカードを付けて歩くのだろう。

目も見えない、耳も聞こえない、助けて下さいと。

 

誰かが触ってきたら、

文字盤で会話する。

文字盤は、あいうえおの文字と点字。

 

声が出せればいいが、

耳が聞こえない人は、しゃべれない。

「あー」と異様な声は出せるだろうが、

そんな声を出すと、普通の人はびっくりして

逃げてしまうだろう。

危険な精神異常者と見られる。

 

会話ができれば、何とか、目標にたどり着けるかも

しれない。

だが、近寄ってくる人がいるかどうか。

 

想像するだけで、

疲れる。