人を尊敬するとは、どういうことだろう。
私はものごころついてから
尊敬する人に出会ったことがない。
中学の頃は、吃音がひどくて、
私の周囲に、誰一人、吃音が分かる人がいなかった。
吃音さえも理解できない先生方、
これでは尊敬のしようもない。
理性で考えれば、
学校で学ぶ事柄のほとんどが、
中身のない形式にすぎないことは
高校生ならすぐに分かることだ。
子どもたちが本当に知りたいこと、
人生、愛、友情、仕事、学び、勇気などは
誰も教えてはくれない。
教師が教えるのは、
体面や建前や美辞麗句だけと言っても過言ではない。
私は成人してからも、
尊敬する人に出会えなかった。
師と言える人。
私に、ひとを見る目がなかったのだろうか。
此の世に、 完全無欠な人はいないのは分かる。
人はそれぞれ個性的で、誰にも様々な欠点がある。
一芸に秀でたからと言っても、
全ての境域で名人とはなりえない。
普通の人なら、
ある面で優れていれば、
他の面で劣っている。
欠点が目に付けば、
その人を尊敬するのは難しい。
例えば、安倍元首相は考えてみる。
政治の領域で優れた業績をあげているのは分かる。
政治家の一族に生まれ、特別な苦労もあったことだろうと思う。
最近の籠池さん問題での発言では、
慎重さや熟慮に欠けていると私は感じる。
小さい問題ではあるが、誠実さを疑ってしまう。
優れた人に、治めてもらいたいという願いは私も同じだ。
優れた人は、自身の欠点に鈍感ではいけない。
誤りがあれば、すぐさま潔くただすのは、
人として当然な振る舞い。
多くの国民は、
完全無欠な指導者を求めている訳ではないと思う。
思春期に、人は迷うことが多い。
そんなとき、
尊敬できる人に出会えて、
親しく指導を受けるなら、
迷いからの立ち直りに役立つだろう。
しかし、
人生の途上では、
他人を当てにできない、
ただひとり本人だけで決断しなくてはならないことが起こる。
そんな時は、身近に尊敬する人がいても役に立たない。
妻に言わせれば、
「あなたは傲慢だから、自分が一番と思っているのでしょう」
という結論。
ひとは皆、自分が一番かわいい。
自己保存が、生きものの第一原則。
そして、第二が種の存続。
どんなに修行しても、
自分の目以外で見ることはできない。
籠池さんの言動を見ていると、
彼の人物が分かるような気がするが、
私の理解には偏りがあるだろう。
私は自分自身、
沢山の欠点がある人間で、若い頃から
悩み苦しんできた。
そして
同様な欠点がある多くの人々を見てきた。
だから、
籠池さんの気持ちの多くを
納得できる気がする。
納得はするが、もちろん、
良い行動とは言えない。
彼は、
自分は正しいという信念が強いひとだ。
日本のこころを知っているという確信を持っている。
願わくは、
思想や理屈や信念ではなく、
自己の内面についての反省や気づきや考察が真剣であれば、
もっと良い指導者になりえたのではないかと思う。
(上記は、5年前のブログです)
++2