「広田弘毅」服部龍二著 中公新書1951を読んでいる。
1937年7月7日支那駐屯軍(日本軍)のある中隊が
夜間演習中に国民政府軍(蒋介石政府)と接触、
戦闘状態に入った。(盧溝橋事件)
現地では7月11日に現地代表の間で停戦協定が成立。
しかし、同日に近衛内閣は、五個師団の動員を決定した。
近衛内閣は不拡大方針であったが、陸軍の突き上げに
耐え切れず、その後も一歩一歩と引きずられていく。
マスコミや世論も蒋介石政府に圧力をかけるべしとする
世の中の流れ、結局、太平洋戦争へと流されていく。
国民政府・イギリス・アメリカと日本の間で、1940年の開戦に
至るまで、何度も戦争回避の機会はあったが、
いずれも、陸軍の圧力の前に屈している。
陸軍の中枢はまとまっていなかったが、
満州国は一応安定し発展を遂げつつある成果が大きく、
黄河以北の傀儡政権も着々と形成され、
中国全土征服も可能という楽観が広がっていたようだ。
苦労して中国大陸で勝ち得た権益を捨てるという選択は、
太平洋戦争前の帝国にはなかったのだろう。
12月8日、帝国は太平洋戦争に突入。
1936年6月3日広田弘毅が首相のとき、
帝国国防方針の第三次改定が天皇によって裁可された。
「帝国の国防は、我と衝突の可能性大にして且つ
強大なる国力を有するアメリカ、ロシアを目標にして、
あわせて、中国、イギリスにそなえる」
まさに世界中を敵にする方針。
同年8月7日に決定された「国策の基準」には、
アジア大陸における帝国の地歩を確保すると共に、
南方海洋に進出発展する」と謳った。
上記の文は主に、中公新書「広田弘毅」から引用。