ringohanjihenさんのブログ

ringohanjihenさんのブログ

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!

どうもです。


一区切りついた感があるので日記をつけます。

昨日ゼミの先生から「一区切りとか安易につけるから体調崩すんやで」という金言を頂いたばかりなのですが、

何とて一休みしたいので。


最近はゼミのこととか進路のこととかでずっとドタバタしてました。

特に院を受けることを決めてからは英語と専門科目の勉強に追われ続けています。


「追われ続けている」と思わず書いてしまいましたが、要するに逃げようと必死ということですね。頑張れよ俺。


まあそれは棚に上げといたろうやないかと。

実際院試験の勉強だけでないんです。

ほとんど毎週のようにやってくるゼミの課題にも追われているわけです。


これは課題の論文が出されて、それをグループごとに要約してパワーポイントにまとめるというものです。

と言っても要約ですから、そこまで難しいことでもないんです。


ただ厄介なのはグループの人とスケジュールを合わせて計画を立てて、役割振って、とかを

一週間のうちにしないといけない仕組みになっていて、割と大変なのです。

しかも運悪いことに自分の苦手な話題とか研究方法(統計とか)が扱われていた時なんかは

理解するのに大分時間を取られてしまいます。


ちなみに僕の今回の担当箇所がまさにそれでした。

ステップワイズ式探索的因子分析だと・・・プロマックス回転だと・・・?

なんだその中二が好みそうなネーミングは。まあ超難しいんすけどね。

ただ何とか説明できたので一安心でした。



と、ここ最近のゼミでの活動は概ねこんな感じでした。実際は合同ゼミ発表とかいろいろあったんだけど、

ばたばたしすぎて忘れちまいました。



話は戻って院試験なんですが、

戻したくないので院試験の時に持っていく「今後の研究内容」のことなのですが、


半年ぐらい前から論文の構想を練っていました。

今となっては懐かしい。


今思えば何故にフッサールを持ち出して現象学的還元がどうたらとか超越論的相互主観性がどうたらとか

抜かしていたのか。ちなみに僕は経営学科の者です。

いやはや、今となっては懐かしい。ただ如何せん、阿呆だった。


他にもポランニーの暗黙知に没頭したり、野中先生とか他の先人の暗黙知の解釈を比較してみたり、

メタファーとアナロジーが論文に使えないかと画策してみたりと、何とも迂遠な道をたどってきました。


考えてみれば、「相互主観性」、「暗黙知」、「メタファー」、「アナロジー」、どれも

言語化して体系化することが難しいことが明示的に言われている領域です。


なぜよりによってそんな領域にばかり目が行くのかと思いもするのですが、

たぶんそういう未知々々としたものこそ、知りたいと思うものなのでしょう。


そうはいっても一向に論文の主旨が定まらんのは問題なのですが。

今年度中に仕上がるんやろか。




例によって今日も眠れないんですが、

眠れんなあと思いながらも
ほんのついさっきまでは布団の中でウジウジしていたんです。

で、ウジウジしてるばっかりもいかんなあと思い、

「そういや眠れん時はある程度体動かしたらええんだったっけか」
と思い起こし、

何の気無しによいしょと足を上に持ちあげて、
そのまま手で押さえつつ腰まで上げました。

体育の時にやってたあの運動ですね。


ただ、何となくこのままじゃ物足りんなあということで、
その勢いのままに腰から上も持ち上げました。

で、だいたい肩甲骨くらいまで持ち上げたんですが、

その時にどういうわけか

「そういやこういう感じで体傾けてバランスとるやつもあったっけか」

とか思いお越し、そのまま体の重心を傾けようとしました。

ただ、傾けようとしたものの体の大部分がベッドに接地しておらずバランスが取りづらい。


「というか、それ以前にベッドが柔らかいのでそもそもバランスが取れない」 よなぁ、何てことを考えつく頃にはすでに僕の体が、

よりにもよって後ろ側(頭側)に倒れ込んでいました。


何とか持ち直そうとはしたものの、そこは深夜2時帯のメンタル。


カフカのグレゴール・ザムザよろしく、

不恰好にみっともなく折り曲がり崩れ落ちていく自分の足を見ながら、

「まあ、ええか」 とニヒルに呟いていました。


しかし、そんな心証の訪れもほんの数瞬で、

ベッドの枕元上辺に足の甲を強かに打ち付けた後は
案の定激痛によって悶絶するを余儀なくされていました。

打ち付けてすぐは何とか平静を保とうとしていたんですが、
あまりに痛くて、いやほんとに痛くて、

「いたい、いたい!」と

わざわざ声に出してまで己の痛みの度合いを訴えていました。



で、あまりに痛くて敵わんので、

今こうして起き上がって日記書いてる次第です。


・・・痛い。




追記
何か冷やすもんないかなあと思って冷たいものを想像してたら
ふとアイスが食べとうなったのでアイス買いに行くことにしました。

二伸
あまりに書くネタがないので前言撤回。mixiの日記も転載していきます。
情けない。





最近、身の回りの色々な場面で「姿勢」というものについて考えさせられます。


姿勢とは、その言葉を言葉通りに解釈するなら、すなわち「姿の勢い」です。


これについてですが、特に注目すべきは「勢い」だと思います。



「姿に勢いがある」の「勢い」を言い換えれば、意志や、意図、態度になるかと思います。


つまり、姿勢は、単に静止している状態のことではないということです。

姿勢には、常にその状態に何かしらの意志が内在されている、ともいえるかもしれません。



姿勢の言葉の意味についてこのように考えれば、

「立ち止まって考える」ことと「くよくよする」ことは、全く違った質感を持ちます。


どちらの言葉においても、その状態にある人は、傍目には身体が静止しています。


しかし、前者には、確固たる意志を感じ取れます。立ち止まっている状態のなかにも、未来へ向けての意志をはらんでいる。後者はただ停滞しているだけです。


このように、ある一つの、傍目に見れば同じ状態に見える行為にも、そこに「姿勢」があるかどうかで、その行為によってもたらされる価値に大きな違いが生じます。

ただ停滞しているだけでは何も得られません。ただの停滞は「姿勢」ではないと思います。

こうして考えてみると、「姿勢を正す」という言葉は、深い意味を持っているように思えます。


姿勢を正すという言葉には、背筋を伸ばせとか、居直れとかいうように、単純に身体の居住まいを正すという意味があることはもちろんです。


しかし、姿勢が持つもう一つの側面である、「意志」について考えた場合、もう少し立ち入った見方もできます。

「姿勢」には、意志や意図が内在されていると言いましたが、じゃあどんな意志や意図でもいいのかというと、もちろんそうではありません。


その姿勢は、道徳的にもしくは倫理的に見て妥当でなければなりません。

そして、その判断の基準については、自分自身で考えなければなりません。


この「考える」というのが大切です。

考えることで、自分の意志が、姿勢が、どんな意味合いを持つかについて思いを馳せることにつながるからです。


姿勢について僕はあれこれと考えるわけですが、そのなかで常々思うのは、そのような自分の姿勢(ないし行動)が持つ「意味合い」に対して、しっかりと自分自身意識しないといけないな、ということです。


そうすることを通して得られるメリットしては、まず一つに、時間の無駄遣いが減ることが言えると思います。


ただ何の意図もなく過ごす時間というのは、やはり無駄です。

こう言うと、「何もない空白の時間にこそ何物にも替えがたいものがあるんだ」と言ってくる人がいますが、それは違います。


何もない空白の時間は、それ自体に価値はありません。


空白の時間によってメリットが得られることの前提には、

「空白の時間を過ごすことによって何かしらのメリットを得るであろう未来の自分を、想定している今の自分」

というものがあります。


空白の時間を過ごすことで何を得られるのかは、実際にその空白の時間とやらを過ごしてみなければ、その「何か」がなんであるかはわかりません。


しかし、そこにメリットがあると思う人は、何かを得られるだろう、ということを、漠然とではあるものの「知っている」のです。(これについては僕も共感しています)


だから彼らは、空白の時間を大切にしようとします。そして、その意識こそが「意志」であるということを僕は言いたいわけです。

要するに、意味があるか無いかなんです。重要なのは。時間というものに対して、自分なりに何かしらの意味づけをしているのなら、そこには確かな「姿勢」が生まれるということです。


よろしくないのは、なんも意味もなく空費してしまうことに、気付けもしないことです。何かしらの意味づけができていれば、例え思うような成果が得られなかったとしても、「ああ、あれではだめだ、もっと他にいい方法はないだろうか」というように、反省し、次なる改善点について、また新たに「考える」ことができます。



現代の人は、そのような、事象に対する意味合い、言い換えれば、事象の背景にあるものについて、あまり考えなくなりました。これについては養老孟司先生も、「ああすれば、こうなる」という表現で論じています。


そして僕は、そういうふうにはなりたくないと思っています。

だから僕は、自分のあらゆる行為に対して、「姿勢」という言葉を通して意味づけをし、その結果として、「考えるという姿勢」を保ち続けようとしてるのかもしれません。




うん、なんか今日はええこと書けた気がするぞ。


自己満足万歳。