「終活」と聞いて、なんのことかわからない…
なんていう人はもうすっかりいなくなりました。
それだけこの言葉が世の中に浸透してきたわけで、
自分の死について向き合う機会が
慣例化してきたということは、
いいことなのかもしれません。
そして私自身もまた、
早いうちからこの「終活」という言葉に
乗っかった人間の一人です。
お寺を始めた当初、それを掲げて、
あちこち講座をして歩いていたりもして、
それがお寺の基盤の一部になったというのも
間違いないことかと思います。
しかしながら個人的には、
この「終活」という言葉が生んだ弊害、
言わば負の側面の方が目立ってきている…
と感じる今日この頃。
それは何かというと、、、
この「終活」というキーワードが
巨大なマーケットを作ってしまった…
ということです。
大きなムーブメントの中では、
避けて通れないことかもしれません。
しかし、
本来もう少し個々に内在するはずの問題を
市場経済の土俵に上げてしまったことは、
やはり否めないわけで、
例えばですが、
この言葉が出てくる以前も、
自分の人生の終わりを意識して、
一度故郷を訪れてみよう…
なんてことはあったんです。
名が付くかどうかはさておき、
それはそれで一人一人の終活…
だったんです。
ところが、終活!終活!
と皆が声を揃えて言い出した結果、
私達の人生の終焉に向かう活動は、
ほぼほぼ経済対策と化した…
と言っても過言ではない。
経済対策向けのマーケットを作り出し、
皆がその土俵の上でしか
人生の終わりを考えなくなった…
とすれば、
果たしてこの一連の
「終活」ムーブメントは、
良いことだったのか…
と考えざるを得ない。
早くに乗っかった私としては、
全くもってお恥ずかしい限りですが、
反省すべきことは多いです。
しかも、
いわゆるお金の話、経済対策の話の方が
動員が大きいので、
ついついそのあたりをテーマに
講座をやってきた感触があります。
情報化社会ですから、
何より情報に価値がなければ、
意味はないのですが、
その情報がどう役立つのか!
お金を出費しないで済むためのものか、
よりよい人生を送れるためのものか、
多分住職としての立場で
今後終活を語る場合、
ここはしっかりと伝えていかないと
いけない!と思う。
みんなが知りたいのは
このマーケット目線の終活なんですが、
そこが入口であったとしても
その枠を超えたところに
目を向けて見ませんか?
という高度なアプローチが
僧侶が終活に取り組むべきメソッドになる…
こう考えていきたいところです。
入口は経済対策であっても、
その着地点は、そうではないところに…。
もう少し一人一人が、
それぞれの人生で本当に必要なことに
取り組んでいく終活を啓蒙していきたい
と思っています。
不覚ではありますが、
この終活のマーケット化を
私自身が増長したとすれば、
反省すべき点ではあります。
だからこそ、
マーケットに乗っかってしまった…
という失態を含めて、
本来そういうものじゃないのではないか…
という提案もできるわけです。
今月末、
また澄川某所にて
終活講座を実施したいと思います。
詳細は後日、
ブログでも紹介致します!