皆さん、こんにちは
青海林檎です
長丁場になってきている「津軽為信」シリーズ、ようやっと後半に突入です。
九戸政実の乱後、ほぼ全国の大名の領土が確定しました。
名実共に、豊臣秀吉の手による天下統一がなされたのですが、ほとぼりが冷めてくると、南部信直は津軽地方の奪還+実父・石川高信の敵討ちのため、五奉行の浅野長政に「津軽為信は悪逆非道の輩であるので、実父の敵討ちの許可をいただきたい」と、申し出ています。
この時、浅野長政は南部信直の申し出を拒否しました。
諦めきれない南部信直は、今度は会津領主・蒲生氏郷を説き伏せて、再び浅野長政に敵討ちを申し出ています。
たびたびの申し出に浅野長政は拒否したのですが、あまりの頻繁の敵討ちの申し出に、「身の危険が及ぶ可能性があり」と、津軽為信に本国の津軽に帰るように言っています。
しかし、南部信直による「津軽は悪逆非道」の喧伝によって、実態が伴わない悪いうわさがいろいろ立ったようです。
事実、後年の朝鮮出兵の際、南部信直に同情的な前田利家から罵倒されたりしています。
とはいえ、津軽の所領安殿の時に世話になった石田三成との関係は良好で、なにかとかばってもらったりしていたようです。
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による最初の朝鮮出兵(文禄の役)が行われます。
この朝鮮出兵で、津軽が朝鮮に渡海したという記録は残っていませんが、津軽為信は文禄元年から2年にかけて、肥前名護屋まで出陣し、本陣付近に着陣したという記録は残っています。
奥州の北端の小大名である津軽為信が、本陣近くに着陣した理由について、豊臣秀吉が「日本の隅から隅まで制覇した」という意思表示をしたかったがためだと言われています。
結局、奥州勢の大半は朝鮮に渡海しませんでした。
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