奥州仕置・津軽為信5 | 青森の鉛筆

青森の鉛筆

青森に関するつれづれをかきます。
おもしぇーはんで、みでけろじゃー(^_^)/

皆さん、こんにちは


青海林檎です


早くから豊臣秀吉と誼を通じていたこと、石田三成のとりなしもあって、津軽地方を本領安堵してもらえた津軽為信


今回は、小田原北条氏征伐後に、奥州の諸大名に行われた「奥州仕置」時の為信の動きについてお伝えします。




津軽為信が津軽地方を手に入れたのと同時に、南部7郡(現在の青森県東部から、岩手県北部にかけて)を本領安堵してもらえた、南部信直。


前田利家に頼み込んでまで津軽地方を奪還しようとしましたが、結局かなわず、ひとまずは本拠地の南部地方に戻っていきました。




小田原北条氏を征伐し終わった後の豊臣秀吉は、意に沿わない奥州の大名の征伐・処分に乗り出します。


これを、「奥州仕置」と言います。


「奥州仕置」が進む中、南部信直の領土内で、九戸政実率いる南部の名族・九戸氏による大規模な反乱が発生しました。


九戸氏は、元々南部宗家を代々輩出してきた、名家中の名家です。


24代当主南部晴政の存命時には、津軽為信と共に、九戸政実は南部晴政に組していました。


南部晴政親子の不審死後、次の南部宗家当主を決める際、九戸政実は自分の弟を推し、他の重臣たちも賛成していたのですが、南部(石川)信直を推す北一族の北信愛が、なかばクーデターともいえる強引な恫喝によって、南部信直を26代南部宗家当主にした経緯があったのです。


このような状況のため、南部氏の中では南部信直に対する不満や不審が渦巻いており、九戸政実が起こした反乱は、むしろ九戸一族に正当性があるような状況でした。




とはいえ、豊臣秀吉から朱印状をもらい、本領安堵をしてもらったのは南部信直なのです。


南部一族の中でも強い力を持っていた九戸政実相手に、南部信直は苦戦し、豊臣秀吉に援軍の要請をします。


事態を重く見た豊臣秀吉は、奥州の諸大名に出陣要請を出し、九戸一族の反乱の鎮圧に乗り出します。


当然、この出陣要請は、津軽為信の元にも送られました。


もともと九戸政実とは南部晴政の元で仲間同士だった津軽為信ですが、豊臣秀吉には逆らいきれず、九戸討伐軍に参加します。


九戸討伐軍は奥州の諸大名の軍勢に加えて、秀吉配下の浅野長政や蒲生氏郷の軍勢も加えて6万ほどになり、九戸政実の守る九戸城を包囲します。


天正19年(1591年)9月2日、九戸討伐軍の攻撃が開始し、九戸城側も善戦しますが、討伐軍6万人に対して、九戸側は5千人程度の数。


すぐに持ちこたえきれなくなり、九戸政実とその弟は投降しました。


助命を条件としての投降でしたが、豊臣秀吉は約束を破り、九戸一族をことごとく処刑しました。


もともと九戸政実も、覚悟の上での投降だったようです。





参考サイト下矢印


歴史の勉強・津軽氏


九戸政実(Wikipedia より)




人気ブログランキング参加中下矢印
人気ブログランキングへ 左矢印クリックよろしくお願いしますお団子