本領安堵・津軽為信4 | 青森の鉛筆

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4年間上洛に失敗し続けていた大浦(津軽)為信弘前市標


家臣の八木橋備中をやっとのことで上洛させることができたのでした。




八木橋備中を先立って上洛させていた津軽為信は、小田原にいる豊臣秀吉の下へ、自ら出向いていきます。


ところが、4年間の上洛工作が南部宗家に知られないわけはなく、津軽為信から領土を奪い取ろうと、南部信直も中央の人間とつながりを持とうとしていました。


南部信直が訴え出た相手は、豊臣秀吉の盟友の、前田利家でした。


前田利家から津軽為信は逆賊だと聞いた豊臣秀吉は、いったんは津軽為信の討伐を決めます。


しかし、一連の南部宗家の動きを察知した津軽為信は、奥州の諸大名の中でいち早く豊臣秀吉に謁見、あらかじめ鷹や馬などの贈り物をしていたのも功を奏して、再び豊臣秀吉に認知してもらうことに成功しました。


豊臣秀吉とは形式上は兄弟 であったのも、認知してもらえた一因であったかもしれません。


小田原北条氏征伐後に始まった「奥州仕置」の際に、正式に津軽地方一帯の領土を認めてもらう朱印状を、秀吉からもらいました。


しかし、以上の領土獲得の動きによって、南部宗家から恨まれるのはもちろん、前田利家からの覚えも、悪くなってしまったのです。




参考サイト下矢印


歴史の勉強・津軽氏




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