4月25日(木)から26日(金)に京都と奈良を回った。国宝の殿堂 藤田美術館展@奈良博国宝一遍聖絵と時宗の名宝@京博が目的であり、前者には快慶作地蔵菩薩像、後者には行快作阿弥陀如来像(阿弥陀寺)と新出の同作阿弥陀三尊像(聞名寺)がそれぞれ出品されていたのだ。すなわち快慶、行快の像が目当てである。この他、なら仏像館にも快慶の像が出品されていたので、それらをふくめて、その場でとったメモをもとに雑感を述べたい。あくまで私がどうみたかの記録であり、誤りや不正確な書き方があるかもしれないが、ここではそれは問題にしない。文体や字、言葉の選び方も同様である

 

快慶作 地蔵菩薩像 木造彩色截金 鎌倉時代13世紀 藤田美術館

 

 

 東新館から始まった展示は西新館へ移るが、その後半の冒頭にこの像が安置されていた。開館してからそう経たないうちに入館しすぐにこの像の前までゆき、誰もいない中で対面した。

 一見して繊細ながら確かな存在感のある像だった。図版でみると光背の存在が大きく感じられ、像自体は大人しいものとばかり思っていたが、やはり実際に本物を前にすると満足感があった。横からみると、衆生の救済にゆかんとするやや前のめりの姿勢である。

 東大寺公慶堂の像と同じく春日本地仏としての地蔵菩薩像で、右手で錫杖、左手で宝珠を執り胸の高さに構える像容である。足枘に「巧匠/法眼快慶」「開眼/行快」の銘があり、装飾性ゆたかな法眼時代の快慶の作風がみてとれる。キャプションには、x線CTスキャン調査により脚部に巻子状、紙束の納入品が確認されたとある。造立年や制作背景が明らかになるかもしれない。さらなる調査が期待される。

 まず顔だが、他の快慶仏にくらべて面長の印象を受けた。横からみるとこぶとまではいわないが、顎がぷっくりとしている。図版の写真撮影の時は下から光を当てるなりしてみえるようにしているのだろうが、展示室では限界があるようで、まぶたが影になって玉眼がうかがえなかった。実見して改めて分かるが、目の開きは細くまなざしはおさえられており、繊細な印象はこのためであろう。唇は上の方がやや大きいようにみえる。小鼻のくくり(鼻翼と鼻唇溝の境目)は深く彫らない。耳はそれぞれ、左は上脚が反っているので行快、右は斜め上を向くので快慶の手によるようにみえる。

 快慶の晩年の作風は量感が減じられたというが、そうはいっても四方からみれば彫刻としての量塊をそなえていた。肩は丸く、腹はぽっこりと出ている。正面からみればなで肩だが横からみると穏やかにしてゆるやかな量感を感じさせる肩から二の腕、胸への曲線がえがかれていた。錫杖を執る右手の仕草が優しい。

 さて、衣文をみていこう。光背を伴っていたのでよくみえなかったが、裙の打ち合わせは左足後方だろうか。前方は快慶らしい左右対称の整斉たるひだを刻む。横からみると裙の裾は、札(さね)が階段状に重なるように規則正しく折れ目を作っていた。袖は左右からみると、袖そのもののぱたぱたとした重なりの描写が顕著である。特に左袖は、左肩で吊った袈裟がかかっており、流動にして繁縟である。いずれにせよ、両袖とも袖の端までぎざぎざとした存在感がある。襟は第二形式。胸元は衣文がにぎやかで、肩から吊った袈裟が胸元におよび衣文に動きを与えている。総じて、流動にして繁縟な衣は重々しいくらいに装飾的である。また、脚部と背部のU字状のひだは穏やかであり、右肩をおおう覆肩衣の緑が美しかった。大報恩寺展でみた十大弟子像の色彩も緑が美しかったことを思い出す。

 截金についてだが、像全体にわたって本当によく残っている。裙の裾には快慶の像によくみられるという菱形の渦文、他にも大衣の脚部の田相には亀甲文などがみられた。どれも細やかで職人泣かせの截金である。

 ところで、像全体の体勢について気づいたことがあった。子細に観察すると左肩が上がり、右肩が下がり、右足を出しているのだ。実際にやってみるとやや変な体勢だが、腰を引いたり足を出したりという体勢は安阿弥様の像にみうけられ、それに準ずるのだろう。脚部のU字状の衣文もあいまって反時計回りの揺動感を生み出していた。下から仰ぎみるとそれが顕著であり、衣の中に足が感じられた。

 光背は、周縁部の円相に文殊種子が表されていることから転用の可能性があるようだが、円相だけが後補なのではと考えたくなるくらいによく調和していた。像の大きさ、色彩の保存状態からして長いこと厨子に安置されていた(古写真が痛ましい歴史を物語ってもいるが)のだろうか、煌々と光を発する姿の演出にひと役かっている。快慶作釈迦如来像(キンベル美術館)の光背は当初であるという見解があり、あれもよく調和しているようにみえる。この地蔵菩薩像もシンプルな二重円相光背の周りに唐草文(宝相華?)が湧き上がり種子が配される形式で、通ずるものがある。断定はできないが、快慶が作った像にはこういう意匠の光背がつけられていたのではないか。この光背が後補であるにしても、当初のものに近いものが取り合わせられていると考えられないだろうか。快慶の光背には、やはり線条や透かし彫りが似合うように思う。像が装飾的と評されるとはいえ、安阿弥様の整斉たる美意識にはシンプルなものが調和するのではないか。浄土寺三尊の光の演出をみるに、誰が案出したのかはともかく、重源周辺で多用されていたという可能性がありそうである。

 仏像は前方から拝するものだが意外にも背面左側からみる、影向するみほとけの背中、肩が頼もしくみえてきわめてよかった。

 以上みてきた通り、この地蔵菩薩像は細い切れ長の目や繊細な截金があいまって、一見して凜とした印象を与える像だった。もちろんそれもそうなのだが実見して思うに、衣の存在感が大きいということが発見であった。前述の通り、袖に関していえば、ただ衣文線としてひだを表すのみならず、衣そのものの重なりをとらえており、正面からみても袖のひらひらとしたうねりを感じる。これを快慶の作風の振り幅としてとらえるか、「開眼/行快」という銘記を重く広くみて、玉眼制作以上に行快の仕事が像に表れたとみるか、他の作例もふくめ勘案せねばならない。

 

快慶作 裸形阿弥陀如来像 木造漆箔 鎌倉時代13世紀 浄土寺

 

 

 特別展をみた後はなら仏像館をみた。「糸のみほとけ」の時にこの裸形阿弥陀如来像はみていたが、館の中央にデンと安置されているとこらからしてこの館の目玉のような位置づけと思われたし、おいそれとあれだけ大きい像が浄土寺に里帰りするとは思えず、同じようにまだ寄託されているのだろうと展示室に足を踏み入れたら、案の定例の如く鎮座なされていた(立像だけど)。

 3mほどあろうかと思われる巨像である。姿勢がよく破綻のない堂々たる体躯はみずみずしく、色気すら感じた。ハリのある頬や切れ上がる目が表す溌剌とした表情は、浄土寺の菩薩行道面に通じるように思った。

 両耳の上脚は前を向いており、快慶の耳というより慶派のそれといった風である。また、耳輪の内側への食い込みが快慶のそれよりも深いようにみえた。実見したこともないし図版からはうかがいづらいが、浄土寺三尊の耳は慶派の耳に近いらしい。建仁年間は南都復興の頃だから、まだ快慶は独立した工房を持たず慶派の中で活動していたであろうことがうかがえる。

 光背の頂部に配された梵字は何だろうか。図録をみても言及はなく、手元に梵字字典もないのでにわかには分からない。光背は線条の二重円相光背に雲が湧き上がる形式であり、先述の地蔵菩薩像の光背と通じる形式である。こちらも同様に図録をみても後補か否かについての言及はないが、西日を背に立つ阿弥陀仏の演出にひと役かっていることだろう。来迎芸術のスペシャリストたる快慶の面目躍如である。

 

快慶作 不動明王像 木造彩色 鎌倉時代13世紀 正寿院

 

 

 裸形阿弥陀と同じく去年もみた像である。サントリー美術館醍醐寺展で三宝院の不動明王像をみたことが記憶に新しいが、そのうえで再びみるとやはり印象が変わる。

 醍醐寺像は胸を張り腕の構えが絶妙でかっちりと決まっているが、正寿院像は腕の構えがやや甘く、前方の空間をゆるやかに包み込むといった風にみえる。左腕をもう少し上げ右手をもう少し身に近づけると醍醐寺像のように緊張感が出るであろう。

 これを像として欠点とするか、それとも異なる作風としてとらえるかは、にわかには判断しえないが、やはり快慶の作風が濃厚である。もちろん下から仰ぎみれば忿怒の相が顕著だが、ハリのある肉どり、面貌には気品とみなぎるものがあり、怒りのみならず慈悲を感じさせる。眉をしかめ唇をかむ表情のために、鼻(眉間)を中心に顔のパーツが配されたようにもみえる。ただ、醍醐寺と異なる点は、そのやや甘めの腕の構えや邪鬼のようなかわいらしい表情から醸し出されるまろやかさであり、この像の特徴といえよう。横顔もよい。

 耳の形は快慶のそれであり、結跏趺坐で下に組まれた左足の実在感が薄れ埋もれているのも、快慶、行快の特徴である。裙の折り返しの翻りも特徴的であり、衣文はゆるやかで自然だ。迦楼羅炎光背は台座とともに後補だが、細い炎が踊るさまは絵画的である。

 

地蔵菩薩像 木造彩色截金 鎌倉時代13世紀 奈良国立博物館

 

 これも去年みた像だ。当時も快慶風だなと思っていたが、藤田美術館像をみた直後にみたら本当にそっくりの像で、違うのは大きさと彩色の保存状態だろうかというくらい。

 切れ長の目、面長で理知的な表情、なで肩、襟の形式、脚部の衣文および截金、袖の描写、衣文のひだ、それぞれが藤田美術館像と共通しているのだ。ただし、30㎝ほどの小像なので、大衣田相の截金文様は、藤田美術館像にくらべてダイジェストの感がある。こちらの像では斜線が交差する意匠(キューピーマヨネーズの袋のデザインのような)にやや簡略化されているのだ。耳の形は快慶のそれ。右足を出し右腰を引く体勢なども快慶風に忠実である。よく調和した線条の光背は当初のもののようにも思える。

 快慶本人とは断定しえないが、快慶工房の腕利きの仏師がのみをふるったのであろう。京都に多くの像を遺す快慶だが、奈良仏師というだけあって、彼が彫った像が春日信仰のかたち(定型)として認知されていたことがうかがえる。