先週初め、セルゲイ・ロズニツァ監督の『国葬』と『粛清裁判』を観た。
https://www.sunny-film.com/sergeiloznitsa
2作とも〈群衆〉ドキュメンタリーと括られている。
『国葬』は、文字通り、スターリン(1878~1953)の死に接した(広大な国土における)数千万のソ連国民=群衆の表情を見つめつつ、“国家の父”の死を嘆き、生前の偉業を讃えるナレーションを聞き続ける135分。
すでに〈スターリンが、映画で語られるような英雄ではなく、多くの民を飢えさせ、粛清した独裁者〉と知っているので、延々とフェイクニュースを見ている気分だった。
もちろん、「映像のなかの人々こそ独裁制を支えていたのだ」という指摘もあるので、それも意識して鑑賞した。
が、あの体制下で生き残るには、幸せな無知でいるか、素朴な民の役を演じるしかなかったと思う。
あるいは、疑問を抱きながらも、一生懸命理解しようとしたのではないか? “エライ人”の主張を。
群衆に同情する一方で、ナレーションの声の大きさ、大仰さには違和感と反発が募り、それは翌日になっても消えなかった。
数日後、ふと気が付いた。たった一つの声が数千万の人を束ねていたことに。
あれほど多くの人がいて(国家の指導部のスピーチはあったと思うが)、庶民の声はひとつも聞かれなかった。だれも興味がない?
独裁国家に多声はない。個々の小さな声に耳を傾ける人は居ず、ひとつの大きな声が代表する。
象徴的だった。
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キューバ映画の中の群衆
〈キューバ映画で群衆を捉えた代表的作家は、ニコラス・ギジェン・ランドリアン〉との指摘に、思い出したのが、『Reportaje(ルポルタージュ)』という彼の作品(1966年)。
無知を根絶することを決議した村の集会
E.P.D. DON IGNORANCIA/安らかに眠りたまえ。ドン・イグノランシア(無知殿)
と書いたプラカードを掲げて行進する村人たち。
無知を象徴する人形に火を付ける。(だが、この行為こそ無知の象徴だ。)
そして踊り続ける
実は、アレア監督の『低開発の記憶』(1968年)のオープニングシーンをお膳立てしたのもギジェン・ランドリアンだった。
発砲事件が起きても、すぐにまた踊りだす人々。
彼らの姿は 《低開発(後進性)》を象徴している。
《後進性》とは、考えないこと (自分で考える代わりに誰かに考えてもらうこと)。
『低開発の記憶』の主人公セルヒオは、群れなかった。
冒頭の踊りの群れからは離れ、街中のシーンでは、人の流れに逆行して歩いていた。
映画の公開時、セルヒオは“革命の落ちこぼれ”と見なされたが、個として存在し得た最後のキューバ人でもあった。
ちなみに、70年代からキューバはソ連化する。
60年代、チェが亡くなるまでは、あんなにソ連化に抵抗したのに。
個人と群衆。あなたはどちら?
余談
あれこれ考えるなかで、久しぶりに「ブリューゲルへの旅」(中野孝次著)を手に取った。
16世紀フランドルで、フェリーペ二世の圧政とカトリック信仰(異端裁判)の重圧を生きる民衆の顔(ブリューゲルの絵)を、ときに肯定的に、ときに否定的に捉えつつ、当時の庶民の生と著者自身の生(日本と日本人)をからめて考察する刺激的なエッセー。
11月24日追記
Nada es más despreciable que el respeto basado en el miedo.
Albert Camus
恐怖に基づく敬意ほど軽蔑すべきものはない。 アルベール・カミュ