人物紹介:ベニグノ・イグレシアス/上映プログラミング担当 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

ベニグノ・イグレシアス/ICAIC上映プログラミング担当
 

 

私は何者か? キューバ映画のために働いてきた人間だ。
映画との結びつきは17才のとき。イギリスの大手配給会社RANKで働き始めたときからだ。
(革命を経て)60年代初め、(国有化により)外国企業が消滅したので、私は(創設まもない)映画芸術産業庁(ICAIC)に入り、経営部門に配属された。学校で経済を専攻したからだ。
ある日、経営部門副部長のラウル・タラドリに呼ばれ、配給部門を任された。26才のときだ。
当時は特別な時期だった。
そのころ新たに開館したYARA(ヤラ)やPAYRET(パイレー)は、朝9時に開き、最終上映が終了するのが夜中の2時。ものすごい盛況ぶりだった。
60年代半ば、ICAICはキューバ全土の映画館を変革するイニシアティブをとった。つまり、新たに映画館を建設したり、再建したり、修繕したのだ。この大変な作業を私は〈英雄的行為〉と呼びたい。なぜなら、ホテルも何もない所(ハンモックで寝た)、資材を運ぶ道さえない地に映画館を建設したからだ。この美談はあまり語られたことがないが、根本的かつ重要な事実だ。なぜなら我々の観客が映画を見る環境を整えたからだ。

観客を変えるためには、映画のプロモーションを変える必要があった。
商業的ではなく、文化的性質のプロモーションが求められていた。
キューバ映画の割合は小さかったが、上映枠や上映館などの面で特権的に優遇された。

その頃、シネマテカ(シネマテーク)は興味深いことを行おうとしていた。
シネマテカの上映プログラムをキューバ全土に展開しようとしたのだ。
館長のガルシア・メサに私が「新しい映画も入れよう」と提案すると、大乗り気で「『400発の打撃(注:邦題『大人は判ってくれない)』にしよう」と応じた。私が「いや、その映画はハードルが高い。全く新しい映画話法の作品で馴染みがない…」と反対したが、彼は譲らなかった。

私は上映館の責任者に『400発の打撃』や新しいフランス映画のムーブメントについて説明せねばならなかった。
何か新しいことが起きることを理解してもらう必要があったからだ。
当日、上映の2時間前から映画館の前には行列ができていた。村中の人が並んでいた。
人混みをかき分けてロビーに入ると、「上映は何回もあるから大丈夫。皆さん見られます」と、係員が椅子の上に立って叫んでいた。
そのとき私は言われた。「ベニグノ、お前は知らないだろうが、この村の人は皆ボクシングの大ファンなんだ。ところが、この映画はボクシングと何の関係もない。お前、殺されるぞ」。

そして第一回目の上映が始まった。誰一人として席を立たなかった。皆、最初から最後まで映画を見た。
「おい、良かったな」と言いながら、人々は劇場を出て行った。
このエピソードは何を意味すると思うかい?
我々の観客は、以前とはもう違っていたんだ

率直に言って、私の人生はICAICに刻印されている。ICAICが成し遂げてきたこと全てが、私の人間性、ものの見方、文化的発展に対する姿勢に影響を与えてきた。
では、その結果、何が私に残ったか? 私のVIDA(人生・生命)だ。

Marysolよりひと言
ベニグノ・イグレシアスという名前、どこかで聞いたことがある…と思ったら、2012年にわが師マリオ先生が明治学院大学のシンポジウムで行った講演に出ていました。“上映プログラミング部長”として、70年代キューバにおける日本映画の流行ぶりを証言して下さっています。
原稿を訳しているときは、地味な人を想像していたのですが、こんな話し上手なステキなオジサマだったとは!

オンラインでお目にかかれて嬉しい!

 ベニグノ氏はp.36に登場。
講演内容はこちらで読めます。
https://www.meijigakuin.ac.jp/gengobunka/bulletins/archive/31.html