セルヒオの望遠鏡で日本から観た1968年のキューバ(2) | MARYSOL のキューバ映画修行

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セルヒオの望遠鏡で日本から観た1968年のキューバ(1)

 

セルヒオの望遠鏡で日本から観た1968年のキューバ(2)

 

私と『メモリアス』との出会い:1990年に原作小説、2000年に映画と出会う。

日本で映画『メモリアス』が初めて上映されたのは、1972年に東京で開催された「キューバ映画祭/Semana de Cine Cubano」だったが、私がこの映画の存在を知ったのは1990年、アメリカのラトガース大学から出版されたMemories of Underdevelopment and Inconsolable Memories”という本を通してだった。

            英書

当時、日本で本作を見るすべは全くなかった。しかし、小田実のおかげで原作小説は読むことができた。私は「ミサイル危機」のとき、ひとりのキューバ人がどんな思いをしたか知ることができて嬉しかった。というのも、日本では「キューバ危機」と呼ばれるにもかかわらず、取り沙汰されるのはキューバではなく、米国とソビエトばかりだったからだ。キューバ独自のビジョンは印象的で、核攻撃を前にした主人公の恐怖と焦燥感は他人事と思えなかった。

 

私は敗戦から9年後の1954年に、2つの原子爆弾が落とされた国で生まれた。戦争の体験はなくても、戦争の記憶と反省(批判)のなかで成長した。父は戦地に送られた経験をもち、母は失われた青春を嘆いていた。雑誌を開けば、広島や長崎だけでなく他国を含め、恐ろしい戦争の写真が目に入って来たし、地獄のような体験談や「神風特攻隊」の悲劇的な死についても読んでいた。子供のころの私は、自分の国を経済的にも精神的にも低開発国(後進国)だと思っていた。だから『メモリアス』の題名や主人公に共感を覚えたのだろう。

 

小説を読んでから10年後の2000年、メキシコの友人に買ってきてもらったビデオテープで、ようやく映画を見ることが出来た。が、その印象は小説とは違った。いきなり始まる熱狂的なオープニングシーンや、ラストが曖昧なせいもあるだろう。小説の最後では、危機を生き延びた主人公に安堵したが、映画では、ミサイル危機のさなか、セルヒオがどうなったか分からない。

私は当惑した。彼がどうなったか知りたかった。そして、もし自分がセルヒオだったらどうすればよいか、考え始めた。やがて、日本の人たちにミサイル危機下のキューバを知って欲しい、セルヒオの苦悩を知って欲しい、そしてもし同じような状況におかれたらどうすべきか、共に考えるためにこの映画を紹介したいと思い始めた。

まず、日本語字幕を付けることにした。小説とラトガース大学の本(シナリオやシーン解説も載っている)を頼りに、数えきれないほど繰り返しビデオを見た。

 

 参考映像:2007年、日本での公開時におけるトレーラー by Action Inc.

 

2003年、東京のキューバ・レストランで『メモリアス』のささやかな上映会を開いた。連絡をした人たちのうち10人くらいが来てくれた。念のため、事前にキューバ大使館にも連絡しておいたせいか、文化担当官とその夫人も来てくれた。

上映が終わったとき、誰も言葉を発しなかった。すると文化担当官が立ち上がり、上映会へのお礼を述べてくれた後、当時の思い出や、とりわけ「ヒロン浜侵攻事件(別称、ピッグス湾事件)」について情熱的に話し始めた。彼のリアクションは、私にとって意外だった。なぜなら、キューバ人にとって「ミサイル危機」は悪夢のような思い出だろうと想像していたからだ。私は勘違いをしていたのかもしれない。そう気が付くと余計に混乱し、以後しばらく脅迫観念に駆られたようにあれこれ読み漁った。その結果、キューバ危機とはまさに国民の団結が頂点に達した時だった、と知った。それでもまだ信じ難く、何人かのキューバ人に直接尋ねてみたが、やはり「危機のとき全く恐怖を感じなかった。それどころか、自分たちを勇敢だと感じていた」と言われた。キューバ危機。それは、彼らにとって栄光と誇りの思い出だった。 

 

注:ミゲル・コユーラ監督の『セルヒオの手記(先進社会の手記)』(2010年)には、主人公セルヒオが日本で講演をするシーンがあり、聴衆の女性が質問するが、その内容には私の疑問が採用されている。

尚、『セルヒオの手記』のセルヒオは『低開発の記憶(後進性の手記)』のセルヒオと同一人物ではない。

 

続く