批判精神とキューバ映画 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

FB経由で「米メディアはなぜヒトラーを止められなかったか」(ニューズウィーク)を読んで、まさに今この時代への警告と受けとめました。

ムッソリーニやヒトラーの台頭を「悪い冗談」のように傍観し「まさか」と楽観していた米メディアの態度。それは、昨年のイギリスのEU離脱や米国大統領選のトランプ勝利を「予想外」と驚きつつも、高をくくって傍観している自分と同じ!


ではどうすればいい? というと、やはり、ぜひともメディア関係者の、覚悟と使命感をもった報道を切望します。また、もし公の機関ができないなら、個人レベルでも発信すべきだと思います。


ちなみにオバマ大統領は、18日に行われた最後の記者会見で報道機関を前に「強大な権力を持つ者たちに懐疑的な姿勢で厳しい質問をぶつけ、お世辞を言うのではなく、批判的な目を向けるのがあなた方の役目だと言い、《メディア批判を繰り返すトランプ大統領に対し手を緩めないよう報道機関に注文をつけ、権力の監視役としてメディアが担う役割を強調≫したとのこと。 この言葉、メディア関係者だけでなく、誰もが心に留めおくべきですね。


ところで、冒頭の記事をFBでシェアした方のコメントの最後には、次のような言葉が書かれていました。
ヒットラーが何がすごかったかと言えば
ゲッベルスという映画界が抑えている宣伝大臣を味方につけたこと。

実は報道機関よりも
エンターテイメントメディアの方が影響力があることを
証明してしまったのかもしれない。

 

映画界と政権の結託。
この指摘に、思わずキューバ映画(ICAIC)は?と考えました。

が、キューバの場合は《映画が社会や体制を批判的に観る≫ジャーナリズムの役割を果たしてきました。 

その代表例がトマス・グティエレス・アレア監督
 

フィルモグラフィーをたどると、すでに1962年の『12の椅子』から批判精神は発揮され、66年の『ある官僚の死』は官僚批判そのものだし、68年の『低開発の記憶』の主人公セルヒオは、オバマ大統領が提唱する「懐疑的な姿勢」を体現しています。

70年代以降のアレア作品については、今後見ていきますが、遺作『グァンタナメラ』は、フィデル・カストロの怒りを買ったと聞きます。

 

もっとも《批判精神をもった映画作り》は、ICAIC創設メンバーが革命前から共有していた精神。その具体例が、革命前の社会の不平等を写し撮った『エル・メガノ』 (55年)。

より良い社会建設に必要不可欠な要素。それが「批判装置」で、「その役割を国内のメディアが果たさないから映画が担っている」とアレアは言ってました。

 

近年はキューバもネット社会になってきて、批判装置を映画に求めなくてもよくなりましたが、それでも受け継がれています。

その証拠に最近のキューバ映画の特徴として、公の歴史で隠蔽された出来事を掘り起こす傾向が挙げられており、例を挙げると、『セルヒオの手記~ユートピアからの亡命』 (PM事件等の検閲)、『Obra del Siglo(仮:世紀の事業)』 (ソ連崩壊で頓挫した原発建設)、『エル・アコンパニャンテ』 (エイズ感染とアンゴラ戦争の因果関係)、 『サンタとアンドレス』 (同性愛者迫害)など。

 

社会主義国の映画というと「プロパガンダ」をイメージするかもしれませんが、キューバ映画の場合は、批判精神が基本にあることを理解して鑑賞することが大事。

そして映画は何を問題視しているか探るうち、革命が抱えた様々な問題が見えてきます。

 

今アレア作品を見直す意義を感じているのは私だけでしょうか?

              
来月初めハバナのブックフェアでお披露目されるというアレア監督の伝記(第一部)。

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