ICAICと「プロパガンダ」 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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京橋のフィルムセンターで開催中のキューバの映画ポスター展。
そのカタログに掲載されている、ICAICシルクスクリーン工房訪問記のなかに気になる言葉がありました。その言葉とは「プロパガンダ」。

しかも同記事によれば、『初期のICAIC(キューバ映画芸術産業庁)においては、映画宣伝という行為に対して「パブリシティ」に当たる語は使わず、「プロパガンダ」と呼んでいた』と証言したのは、わが師マリオ・ピエドラ教授ではありませんか!
カタログ
 
2012年11月に師が来日し、キューバにおける日本映画の影響について講演した際には「ICAICの映画はプロパガンダからほど遠い」と発言していたのに…矛盾しているのでは?
 
そこで師に問い合わせたところ、意外な史実が判明しました。
その史実とは―
1961年5月、キューバでは「パブリシティ」という言葉の使用を中止(もしくは禁止)する。
理由は、「パブリシティ」とは資本主義が人々に不必要なものを買わせるために発明したものだから。
以後、「パブリシティ」は公共善と認められる場合に限られたうえ、「プロパガンダ」と呼ばれた。
 
こうしてICAICの「広報(パブリシティ)」部も名称を「プロパガンダ」と変えたものの、実質的な活動内容 ―ポスターや映画のスチール写真の配布、上映プログラムを新聞等に届ける― は変わらなかったようです。
 
ただ、デザイナーは「映画の宣伝」という使命から解放されました!
そもそもICAIC自体、発足時から「映画ポスターも芸術であるべきだ」という考えだったようですが、それにしても「パブリシティ」の禁止という事態は、映画ポスターに本質的な変革や独創性をもたらすきっかけになります。
 

*アントニオ・フェルナンデス・レボイロの証言

1965年(Marysol注:1961年5月の誤り?)、いかなる種類のプロパガンダも街中にあってはならぬ、とフィデルが指令を出した。これによりポスターから直接性が消滅し、独自の造形行為となり図式が壊された。少なくとも「ポスターとは宣伝であり、イベントを告知するものである」という第一義的な規定が破られた。

 
やがては逆説的な状況さえ生じました。というのも、真に芸術的なポスターにおいては、作家が重視される一方で、肝心の映画が単なる身元を証明する要素と化してしまったからです。
また、ポスターの生みの親でありパトロンであるICAICの評判が高まる、という派生効果も起きました。
実際、ポスターが発信しているのは、映画の宣伝というより、ICAICの広報メッセージだったとも言えます。
その最大の功労者が、24歳の若さでICAICに参加し、42歳で早世するまで広報(プロパガンダ)部長を務めたサウル・イェリンでした。(写真は、ポスター展のカタログp.72で見てください)。
 

*再びレボイロの証言

 ポスターの採用はすべてサウル・イェリンの判断委ねられていた。彼は全く自由に創造させてくれた。その結果、社会主義リアリズムという方向づけに対し多くの者が立ち向かった。

 
ICAICのポスターは、デザイン性の高さに加え、限定された印刷部数、セリグラフィーならではの洗練された色彩や質感のおかげで、国内外でコレクションの対象になっていきます。
 

*スーサン・ソンタグの証言(「革命の芸術」(1970年)より

多くのポスターは、実際的なニーズを満たしていなかったが、ぜいたく品であり、芸術への愛によって究極的に製作されたものだった。

 
「プロパガンダ」とは、「ある政治的意図のもとに主義や思想を強調する宣伝」を意味しますが、ICAIC(映画)のポスターは違います。
それなのに、なぜ「プロパガンダ」と称したのか?
その理由は、資本主義の足跡や影響を払拭するための国家的対策にありました。
 

*革命後の映画ポスターの最初の大きな挑戦は、アメリカ映画によって染みついたイメージを払拭することだった。革命前、観客の96%はアメリカ映画を見ていた。

 
ゆえに、来日時のマリオ先生の発言「ICAICの映画はプロパガンダから遠い(むしろそれを否定していた)」という発言とは矛盾しないのです。
 
では、ICAICが伝えようとしたメッセージとはどんなものだったのか?
それは、皆さんが映画ポスター展や上映会を通して、考えてください。
私もブログを通して追及していきます。
 
拙ブログ関連記事:ICAIC対社会主義リアリズム