デスノエスのインタビュー紹介 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。


早速ですが、お知らせです。MARYSOL のキューバ映画修行-Latina1月号
いま発売中の音楽雑誌「ラティーナ1月号」 に、『低開発の記憶』の原作者で脚本家のエドムンド・デスノエスへのインタビュー記事が掲載されています。

たっぷり4ページにも渡っているうえ、内容はやや難解かもしれませんが、読みごたえタップリ。ぜひお読みください。

インタビュアーは、伊高浩明氏(ジャーナリスト)。

ちなみに「ラティーナ」は置いてある書店が少ないようで、むしろ大型CDショップの方があるかも。
私も年末、ジュンク堂に買いに行ったら売り切れ!
慌ててタワーレコードに行き、無事ゲットしました。


そして、数日前に記事掲載のことをデスノエスにメールで報告したら、

早速、「感想を述べよ」とのお達し。
でも、内容が多義に渡っているうえ、各回答の中身が濃いので、そう簡単には書けません。
とりあえず、『低開発の記憶』の原作と映画との違いは?という質問に対する彼の回答に、異論を述べました。


手短かに説明すると、「映画は読者の想像力を制限してしまった。小説の方が一語多義的(ポリセミカ)だ」というデスノエスに対し、私の意見は「小説は主人公のモノローグで、彼の主観にそってスラスラ読めるが、映画のほうが複眼的で“ポリセミカ”であるため、複雑で多様な解釈ができる。だからといって、それは小説の著者を貶めることにはならない。なぜならデスノエスは映画の脚本家であるのみならず、撮影において様々なアイディアを提供しているからだ」。


また、「監督は場合によっては、原作者に従わねばならない」という彼のコメントに対しても、「小説は世に出たら作者の手を離れ、読み手は自由に解釈したり、新たな解釈(価値)を創造してよい。古典はそうやって再生してきたと貴方自身が言ったように」というのが私の意見。

それに対し、すぐに「todo lo contrario(すべて逆)」という言葉と、「小説の主人公のほうが、ずっと深みがある。アレア監督はドキュメンタリーの挿入によって作品の批評的曖昧性を薄めた。私はこの映画の脚本家であり、映画を内部から知っている」という反論をいただきました。


どうやら意見交換は続きそうで、インタビューの感想を伝え終わるのはいつになるやら?
でも今年の目標は『低開発(後進性)の記憶/メモリアスⅠ』をとりあえず卒業(?)すること(理由は、ミゲル・コユーラ監督の続編『先進性の手記(仮題)/メモリアスⅡ』に取り組みたいから)なので、大いに意見交換をして、できるだけデスノエス本人から吸収したいと思います。


ところで、デスノエス関連で、こんなサイトを見つけました。

http://stylelikeu.com/closets/edmundo-desnoes-felicia-ross-handler/
彼のパートナー、フェリシア(写真家)を紹介している、ファッション系サイト(英語)。
ちなみに、フェリシアさんは『低開発の記憶』の主人公(セルヒオ)の若き日の恋人(ハンナ)のモデルです。
しかも「事実は小説より奇なり」で、二人はあの映画のように別れてから35年後、米国で再会し、その10年後、一緒に暮らすようになります。(サイトの動画でご確認を)

また、動画の下の一連の写真のほうもぜひご覧ください。
注目して欲しいのは、なぜフェリシアさんがバービー人形を撮るのか?という理由。
あともう一枚は、リー・ロックウッド が撮影した「キューバ革命の写真」。


         MARYSOL のキューバ映画修行-Lee Lockwood    

拙ブログ で、デスノエスのコメントを訳していた時から見たかった写真で、彼が主張する「曖昧性」の一例になっています。

デスノエスのコメント:
「3人のキューバ人労働者が最高司令官の大看板を持ち上げている。鑑賞者には、彼らがフィデルを持ち上げているのか、あるいはフィデルに押し潰されそうになっているのか分からない」