昨日の夕刊から今日の朝刊に《北朝鮮の核実験》のニュースが大きく取り上げられています。
私は、北朝鮮の核の脅威がニュースになる度に(2003年の春ごろから)
「今こそ『低開発の記憶』を観て、考え、意見の交換ができたらいいのに…」
と思います。
「ミサイル危機」を前に、 “行動に踏み切れず、引きこもるセルヒオ”と
“死を覚悟して、行動する人々”の態度を<冷静に・謙虚に・そして誠実に>
考えて(日本の戦争体験も踏まえて)<自分ならどうするか?どうすべきなのか(だったのか)?>皆さんの考えを拝聴したいです。
ただし、私にとって“セルヒオが女たらしかどうか”は論外。
彼(離婚しているから不倫ではない)と同じ幻想を抱く男性は少なくないだろうし、エレナだって“ヒネテーラ(援助交際する女性) ”だったのですから。
(裁判でセルヒオは無罪になり、エレナは処女でなかったことが判明する)。
おそらく考えても結論は出ないでしょう。
でも、現実(歴史)を踏まえ、真摯に考え、冷静に、本質的な意見の交換がなされることを夢みています。
そうすれば、新しい視界(可能性)が開けるかもしれないし。
『低開発の記憶』のセルヒオは現実の“観察者”です。
でも彼は“理解しようとしている”のです。
セルヒオが、もし理解でき、“信じ”られれば、行動するでしょう。
では、いったい何が彼を躊躇させるのか?
“死への恐怖”でしょうか?
(仮にそうだとしても、私は彼を“卑怯者”と罵れません。)
↑写真は10月22日の新聞報道を読むセルヒオ
あるいは“革命への疑念”かもしれません。
キューバ革命とは何か?
目の前に現存する社会は、本当に“新しく”なったのか?
一方、街の人々はどうでしょう?
「人々は戦争をまるでゲームと勘違いして
いるようだ」(セルヒオ)
ようやく獲得した真の独立を、死を賭けて守ろうという、犠牲的精神には心から敬意を表します。
でも一方で、集団的熱狂の渦に巻き込まれているのではないか?という危惧もあります。
かつて私達の国が経験したように…
人間は、他者との関わりなしに生きることが出来ないけれど、自我=個の確立こそ、近代的な人間の条件なのだとしたら、人々は本当に自分で考え、行動しているのか?
自分の頭で考えるとはどういうことなのか?
『低開発の記憶』はそれを試し、鍛えるための有効な“素材”になると思います。
少なくとも、私にとってはそうなりました。
「すべてが集団化へと突き進む一方で、個人が排斥された。
だが個人はまぎれもなく表現されている」
(『低開発の記憶』の意義について語るデスノエスの言葉)
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10208928390.html