大胆な意図と巧妙な仕掛け | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

苦い覚醒――あるブルジョアの眼を通して熟考される革命(1)
        MARYSOL のキューバ映画修行-映画:『いやし難い記憶』

☆― 大胆な意図と巧妙な仕掛け ―☆
ウェブ紙『cubaEncuentro』によると「先月24日、ICAIC50周年を記念して映画

『低開発の記憶』がテレビで放映された」そうです。
同記事によると「深夜の放映だった為、ほとんど誰の目にも触れなかった。

しかし見た者は“古典作品とは常に大胆である”ことを思い知らされた」。
その“大胆さ”を示す例として、次の2シーンが挙げられていました。


1)「チェ・ゲバラが発した『ここの人間集団は“もうたくさんだ”と言って歩み始めた』という一節をパロディ化し、「私の妻や両親と同じく、マイアミに到着するまで止まらないだろう」と主人公は茶化している。
                  MARYSOL のキューバ映画修行-「もうたくさんだ」


2)「別のモノローグでこのアンチ・ヒーローが『キューバ人はすぐさま状況に順応し、“自分たちに代わって誰か他の人が考えてくれる”ことをいつも期待している』と言った直後、カメラは道路沿いにある巨大な立て看板に描かれたフィデル・カストロを捉える。(このシーンはぜひご自分の目で確認してください)

 
Marysolからの解説
(1)のシーンについては、私がデスノエス氏に「新しい人間」について質問したときの返事が参考になると思います。
「革命の初期、文学と映画には二つの機能があった。ひとつは新しい価値観をつくること―映画『ルシア』のように。もうひとつは、それらの価値に疑問を呈すること―映画『メモリアス』のように。ティトン(アレア監督)も私(デスノエス)も、チェの提唱する「新しい人間」を信じていなかった。だから映画の始めのほうで、セルヒオはチェが国連でした演説を引用する―「“もうたくさんだ”。そう言ってこの偉大な人類は歩き出した」だがチェの無謀な楽観主義に代わって、セルヒオはこう皮肉る―「マイアミに着くまで歩みを止めないだろう」と。“新しい人間”のことを考えたことは一度もなかった。私たちが信じたのは、男も女もより人間的に生きられる社会状況を作る可能性だった。ささやかな改善―今もその信念に変わりはない。

ちなみに――
『もうたくさんだ』で有名な一節は、フィデル・カストロの「第二ハバナ宣言」(1962年2月4日)に出てきます。

原文は以下のとおり―
「(……)彼らは石を、棒を、マチェテを武器として、当然自分のものである、そしてそれを守るためには生命を投げ棄てることもいとわぬ土地を占領しながら、いくつもの道を通ってやって来る。(……)この大きな人間集団が〈もうたくさんだ!〉と言い、歩み始めたのだから。そしてその巨人のごとき歩みは、真の独立をかちとらぬかぎり絶対に止まらぬだろう」 

(参照:「キューバの祭り」アニア・フランコ/筑摩書房)


MARYSOL のキューバ映画修行-Edmundo Desnoes (2)についても、やはりデスノエス氏から「あのシーンは意図的に仕組んだ」と昨年の11月ごろメールで教えられたのですが、その時点では納得できずにいました。
ところがまもなくハバナ映画祭に行き、アレア監督を描いたドキュメンタリーを観ていたときのこと。

(2)のシーンが登場し、セルヒオのモノローグのあとで

フィデル(看板の絵)が大写しになった途端、

満場の客席から一斉に大きな拍手が起きたのです!!
「やっぱりそうだったのか!」しかも「皆その意図を理解している!」
驚きと(理解されている)嬉しさで、思わず私もスクリーンの向こうのアレア監督とデスノエスに向けて拍手を送ってしまいました。(このお調子もの!)
今でもあの時の衝撃を思い返すと心が震えます。

まさに現場でしか味わえない醍醐味でした。


このシーンに拍手を送る人々の気持ちを汲むことが、今のキューバの人々の

心情を理解する鍵であること、

そこに『低開発の記憶』の最も大事な今日的意味があることを、

私はブログの片隅から訴えます。
  MARYSOL のキューバ映画修行-Titon ドキュメンタリー

『ティトン、ハバナからグァンタナメラへ、1928~1996』