コラージュ (対話2) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

『低開発の記憶』をめぐる対話(2)
前回(コメント欄も含めて)続きです。

○chinitaさんの質問 (コメント欄より)
MARYSOL のキューバ映画修行-コラージュ1 セルヒオ「へー女優になりたいの??でも女優ってさー、いつも同じセリフで同じジェスチャー(振り),同じセリフ同じジェスチャー,同じセリフ同じジェスチャー.......ってそこから元奥さん?の入浴シーンの繰り返し、パンツを脱ぐ女の人のシーンの繰り返し、それって、暗に何度も繰り返されるスローガンやマスゲームのようなみんなが同じ行動をすべく全体主義?への批判のように見えるのですが、いかがでしょうか?


●Marysol返事
あの繰り返される色んなエロチックなシーンは、そのあとエレーナがセルヒオと訪ねるICAICで見る、「バティスタ政権下の検閲でカットされた映像」がコラージュされているんです。
私はシーンの繰り返しよりも、むしろセルヒオが言う「役者の仕事なんて同じことの繰り返しだよ。壊れたレコードみたいに」という台詞が、オフィシャルな言論への皮肉かなぁと思いました。
で、それもデスノエスに訊いたら「深読み」と言われましたが、でも「それは悪いことじゃない」とも。
このシーンのことは紹介する価値があるのと思うので、改めて記事にしますね。


§ということで、今回はお約束のシーンを観てみましょう。


【レストランのシーン】
セルヒオ 「どうして女優になりたいの?」
エレナ   「(頬杖をつき、不貞腐れたように)いつも同じ自分でいるなんてもううんざり。女優なら他人から変に思われずに、別の人間になれるし… それにアタシ、もっと個性を伸ばしたいの」
セルヒオ 「でも映画や演劇の人物なんて、キズのついたレコードみたいなもんだよ。女優なんて暗記したことをただ何度も繰り返すだけさ。同じ身振り、同じセリフ、同じ身振り、同じセリフ……」
エレナ、セルヒオを見て、思わず笑みを浮かべる。
【フィルム映像】
上半身裸の男女が、海岸の岩場で身体を重ねようとしている。
劇的なサウンド(オリジナル音声)と共に4回繰り返す。
バスルームに入ろうとする裸の女性の後姿(鏡にも映る)
サウンド(次第に強まる)と共に3回繰り返す。
男達の歓声と、パンティを脱ぐストリッパー(膝から下のみ)

3回繰り返し
ドレスからこぼれそうな女の胸をまさぐる老紳士(1回)
ブラジャーを外し、放り投げるストリッパー(上半身)。
  男達の歓声を受けながら、ポーズをつけ一回転して見せる。(1回)
ブリジット・バルドー(フランス女優)のベッドでのラブシーン(1回)

【ICAIC映写室】

   エレナとセルヒオが並んで座っている。その後ろの列にアレア監督
   同3人の前後に1人ずつICAICのスタッフが座っている。
   エレナはバックからコームを取り出し、髪を整える。

            MARYSOL のキューバ映画修行-Sala de Titon
セルヒオ 「(アレアの方を向いて)おい、今のフィルムはどこから?」
アレア監督 「たまたまフィルムの入った缶が出てきたんだ。例の委員会がボツにしたフィルムさ」
セルヒオ 「委員会って?」
アレア監督 「映画検閲委員会のことだよ。革命前の」
前列の男 「公開する前にカットしたんだ」
後列の男 「モラルに反すると言って」
アレア監督 「モラルとか良俗とか…」
セルヒオ 「ああ、そうだったな。思い出したよ」
前列の男 「じゃ、会議があるから先に失礼」
一同  「ああ」
セルヒオ 「ところで、連中もモラルを気に掛けてはいたようだな」
アレア監督 「少なくとも体裁を整えようとはしたんだな」
     エレナ、セルヒオ、アレア監督、映写室を出る。
     廊下を歩きながら―
セルヒオ 「このフィルムをどうするんだい?」
アレア監督 「映画に使おうと思ったんだ」
セルヒオ 「映画に?」
アレア監督 「そう。コラージュみたいにして、全部入れてしまうんだ」
セルヒオ 「だけど、意味がなくては」
アレア監督 「大丈夫。今にわかるよ」
セルヒオ 「検閲は?」
アレア監督 「通るとも」


●Marysolの感想
ここのシーンの繋ぎ方ってトリッキーですよね。
さも「なるほど、セルヒオの言うことも一理ある」と思わせるように、繰り返し映像を見せた後、似たようなエロチックな映像に繋げて、いきなりICAICの映写室の場面に跳ぶ――唐突なようだけど、すぐに【先刻の映像がバティスタ政権下の検閲でカットされたもの】であることが分かる。しかも「これをどうするんだい?」と尋ねるセルヒオに、アレア監督自身が「コラージュにして、ある映画に全部入れるつもりだ」と答え、現にその通りになっていることを観客は確認する(観客=証人)。


一種の遊びになっているうえに、一見「革命政権下では検閲が通り、オープンになったような印象を受ける」けれど、PM事件(1961年に『P.M.』と題する短編ドキュメンタリーが上映禁止になった)を知る人間なら「革命後も検閲がある」ことは明らか。すると、アレア監督の『(検閲は)通るさ。見ていてごらん(=ご覧の通り)』というセリフは、挑戦的とも受け取れます。


★デスノエスの返事
君は深読みをしているね。でもそれは悪いことじゃない。言葉というのは、多重の意味をもち、様々なアングルや文脈から解釈が可能だから。ただ実際には『同じ身振りとセリフの繰り返し』という言葉は、マーロン・ブランドの発言『役者というのは、映画でも演劇でも同じシーンを何百回も繰り返し演じなければならない。特に演劇は毎晩公演があるから』に由来する。

しかし人生も同じだ。我々はいつも同じことを繰り返している。
          
●おまけ情報
§映画に出てくるICAICの試写用映写室は今「Sala de Titón(ティトンの部屋)」と呼ばれている。ティトンは、アレア監督の名トマスの愛称。
§映画検閲委員会は、革命後1959年10月に「映画分類検討委員会」という名称に変わり、ICAICの一機関となった。

 同委員会は、作品の対象年齢を検討する仕事も担っている。