ハバナ大学教授 マリオ・ピエドラ
キューバは移民する人が非常に多く、その割合は人口の約20%近いと見る専門家もいる。
その特殊な事情と政治的要素ゆえに、移民の問題は国にとって最重要かつデリケートな問題の一つだ。
しかしながら、このテーマに取り組んだキューバ映画はあまりない。
“Memorias del subdesarrollo(注:メモリアス参照)”(1968年)を除き、久しく映画では扱われてこなかった。
わずかな例外はあるにせよ、その複雑な様相に踏み込んだキューバ映画は未だに数少ないと言えるだろう。
そのような中で、ウンベルト・パドロン監督の『Video de familia』は、現代の視点で深く誠実に、移民と残された者との関係を捉えた、稀有な作品の一つだ。
ICAIC制作ではないが、2001年の新ラテンアメリカ国際映画祭新人賞をはじめ、数多くの賞を獲得した。
だが、もっと肝心なのは、映画が観客に重要なインパクトを与えたことだ。
映画を見た人々は、そこに自分たちの姿をぴったり重ね合わせたのである。
この映画は、「家族ビデオ」という独創的な形式をとっている。今や世界中で行われていることだが、とりわけキューバでは、外国にいる親族から本国へ、あるいは逆に本国から外国へと、自分達の近況を撮っては送っている。
したがって、映画は終始、素人が手持ちカメラで撮影しているような印象を与える。ハバナに住むある家族が、米国に移住した息子に送るビデオレターを、友人に頼んで撮ってもらっているという構図だ。
一般的に考えると、こうしたビデオはとかく現実を美化しがちである。
遠く離れている親族に、ありきたりの“快い”映像を送り、問題や矛盾は隠そうとするからだ。
しかし映画が展開するにつれ、家族が巻き込まれている矛盾が、段々と白日の下に晒されていく。
まず、父親と母親の間にキューバの現実を象徴するような葛藤がある。
父親は支配的で、不寛容で、先入観にとらわれた考えに固執している。
一方、母親は実際的で、物分りがよく、愛情深い。
また、何よりも父親は、現実を受け入れることができないでいる。
移ろいやすい世界にあって―そこではもはや彼の価値観は大きく損なわれているのだが―、まるで救命ボードにしがみつくように、自分の考えにしがみついている。その結果、彼の世界観がもう古くて無効であることを認められないでいる。
一見、家族中が彼の企てに加担し、彼を支えているように見えるのだが、皆、父親には今の家族の状態を伝えることはできないと感じているのだ。なぜなら父はそれを受け入れる用意ができていないからだ。
悲劇的な人物たる父親は、己がフラストレーションと無理解を、攻撃という形で発散する。まるで「目的が見えなくなると、努力は倍加される」(あるキューバ人作家の言葉)ように。
こうして彼の背後で、毎日の生活が過ぎていく。実際、現実を前にして、彼は全く無力なのである。一家の中心は、もう彼ではなく、移住した息子なのだ。その息子による経済的援助のおかげで、一家は生存しているのだ。
そして、この息子が「自分はホモセクシャルだ」と告白することが、変化のきっかけとなり、思い込みから解放していく。
一方、キューバ移民の特殊な事情(法的に、短期滞在を除いて帰国が困難)は、“出て行った者”が家族に残した空洞に、特別な場をもたらす。
『Video de familia』は、その率直さゆえに、今まであまり触れられなかったキューバの現実、それも悲痛な現実を我々自身に知らしめた。
父親役と母親役を演じた二人の名演技は、映画に大きな感動を添えている。
この映画が掲げるテーマは、今やキューバの生活の中心的要素であり、すべてのキューバ人が涙しながら解決の時を待ちわびている問題である。
Marysolより
映画『Video de familia』は、以前3回に分けて紹介しました。
以下のサイトを参照してください。
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10014970884.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10015052545.html
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10015175739.html
ところで、きょう9月18日はマリオ・ピエドラ先生の誕生日。
こうしてブログで「お祝い」を言うのも2回目になりました。
昨年は確か「秋桜」の絵はがきをお祝いに贈りましたが、今年はコレ↓
「空に向かって真っ直ぐ伸びる」竹のイメージが、キューバの椰子の木と重なるし、先生の真っ直ぐな心根にもピッタリ!ということで選びました。
先生、お誕生日おめでとうございます。
これからも色々と教えてください。