春ですねー。

満開の桜をみて、楽しさと同時に怖さを感じたというブログに影響を受け、思ったことを記します。

  生態の遷移について

怖さの正体は、生態学の概念のひとつ「遷移」かもしれません。少し前のブログでも触れた、伊吹山植生復元プロジェクトの、山頂の生態系の変化も遷移の事象のひとつです。



もし、自然の遷移で伊吹山が再生するとしたら、、

  • まず、むき出しの岩肌に菌類が定着する。
  • 次にコケ類がやってきて、菌類を押しのけ土壌を生む。
  • ある程度したら、土と水分が出来上がる。
  • すると、シダ類など小さな種子植物が育つ。
  • やがて気候に適した高山植物が育ち、もとの姿で安定点を迎える。
  • 遷移は植物に限らず動物たちにも起こる。

何百年かかるのか。

自然の遷移は、周期の長さ、移行の遅さ、関わる変数の多さなど、これまで自分が関わってきた人工的なシステムとはスケールが違い過ぎて、畏れを感じます。

 

  自然への関与

自然の遷移には人も関与しています。

●積極的関与

例えば農耕は、遷移を人為的に止めて、ある種の作物だけを常に繁栄させる技術。もし人が関与をやめればたちまち遷移が再開し、草が繁茂するでしょう。

 

●間接的関与

春の日本を彩る川沿いの桜の木。桜に意志はないとは思うが、満開の花や散りゆく花の美しさが人を引き付け、その結果人の手が入り、川沿いの土手の生態系を制しているならば、したたかな生存戦略です。


人も自然の遷移に組み込まれているのですね。

 

 


  感想

自分の知るものとスケールが違い過ぎるものと対峙した時は、変数の削り方→今回なら周期の切り取り方 を見直すと、目先の問題がなにか解ることがあります。


例えば、

大きな周期・自然の遷移のスパンで切り取ると、桜にも人にも、成長も衰退も訪れる生態のしくみに、怖さを感じました。


また、

小さい周期・開花〜花の舞い散り〜新葉の吹き出しまでの短い期間で切り取ると、確実に来る終わりへの怖さと同時に次への期待や不安を感じます。


でも、

年単位で切り取ると、気候の周期のしくみによって、桜や人に再会したり、過去の記憶を思い出したりする楽しみを感じることができます。


近視眼は、日常の具体的な事柄に対応するのに役立ちます。俯瞰は、自分がちっぽけに見えたり、逆に全能的に見えたりします。どちらも新しい自分を見つけるきっかけにはなります。

うまく変数を削ったり、切り取り方を変えたりして、桜を楽しみたいです。(おわり)