親父は、明治34年宮城県北部の菓子店の

次男に産まれる。

 

尋常小学校を卒業して、仙台の商店に就職。

途中で退職して上京、専修大学附属商業学校

入学した。

大正12年9月1日の関東大震災に会い、

道半ばで断念。仙台の実家に帰った。

仙台貯金局に職を得た。

 

大正13年、母親から勧められて結婚した。

僕の産まれた町に菓子店を開業した。

親父の実家が菓子店。店の手伝いで

菓子作りが出来たらしい。

 

やがて、店を駅前に転進して、

大正13年には、長男。昭和17年までに

7人の子供が生まれた。

全員、高校迄卒業させた。

 

家の切り盛りは、

親父は工場で菓子作り。

お袋は家事全般と店番。

子供達は、手伝いと店番と学校。

 

店の商品の殆どが、親父の手作り。

一番は。羊羹、よく売れた。

全国大会では、賞を貰った事も。

金太郎飴。南部せんべい。和菓子。

何でもあった。

 

子供達も、良く手伝った。

仙台の菓子材の買出し。あんこ煉り。

羊羹の袋詰め、等。

子供達が店員で、雇い人は無い。

 

店に「けらえいーん」とお客の声。

「ください」の意味。

親父は殆ど不在。お袋か子供達が相手。

金銭登録機とそろばん(五つ玉の大形)が

昭和初期の懐かしい店だった。

 

店に近い6畳間に四角の岡火鉢があった。

親父は良くそこで煙管に刻みタバコを詰め

休憩していた。

 

ある日。そこへ、面と向かって、座らされた。

怒っている、今も何で怒られたか分からない。

親父に怒られたのは、これ一回だけだ。

 

町の神社のお祭りは、大きな御神輿。

大名行列と、凄い賑やかだ。

親父は、世話役。昔の姿で行列に参加。

学校の世話役。納税組合長。区長。

菓子組合会計等を勤めていた。

 

第二次世界大戦で、菓子を作れない。

模型飛行機の材料店に早替わり。

僕は、そのおかげで仙台で材料の仕入れに。

親父は、爆弾製作工場へ勤務して店はお休み。

 

終戦後、店も工場も復活して、家族も

それぞれ社会人となって実家を離れた。

 

親父は、満74歳、喉頭がんで死亡。

ちょっと早かった。

 

僕の親父の人生でした。

 

一番小さいのが、僕。

親父。お袋。兄二人。懐かしい顔、顔。

 

(注釈:時効のため、そのままの写真です)