三国志学会でゲットした論文集です☆

最も私ホイホイだったのが、一番最初の講演「身を焼く曹植」でした。

京都大学大学院教授の川合康三先生という方のものです。

京大って三国志系の研究盛んみたいですね~関東住みなので行けませんが、見学したい。。


さて、曹植というだけでもう十分私の興味をそそるのですが、文学と思想に関する論文だったので、気付いたら重要そうなところに線を引きながらしっかり熟読してしまいました(爆)


曹植の詩には、「秋には野火に随いて燔かれん」(「吁嗟篇」)など、焼死の描写が表われているのが挙げられています。

それ以前の時代にも焼死の話はありますが、自分自身を焼くというシチュエーションは存在していないそうです。

こうした発想の起源として、曹植は仏教に影響されていたのではないかという見解も引かれています。

『中国仏教史』(鎌田茂雄著)にそんな記述もあるとか。

ですが、この仮説は根拠が不十分で、仏教の立場から導かれた考察である可能性があるため、否定されています。

ここで、「自滅への欲求」という言葉が出てきます。

更にフロイトの心理学も持ち出し、「死の欲動」「他者への攻撃性が行き場をなくした結果の転化」とも言われています。


ここから私の感想になっていきますが、仏教の影響という説はやはり頷きがたいところがありますね。

明確に仏教のことを曹植自身が遺していない、という指摘も勿論そうですし、仏教思想の特性も関係してくると思います。

仏教が呈する「火葬」は決してマイナスイメージのものではありません。

「輪廻転生」という理念が根底にあって、身体を焼き払う事で魂を開放させ、次の輪廻に備えさせるわけです。

もし曹植が仏教を信じていて焼身願望を語ったとなれば、来世に期待をかけているという事になりますよね。

辞世の詩ならともかく、中央へ戻る事を何度も訴え続けていた曹植は、来世に賭けて現世を諦めるような思考に至ったでしょうか。

私は曹植が詠む「火」は仏教に於けるような開放の火ではなく、ただ単純に戦火だと思います。

彼の戦地に赴きたい願望が如何ほどかは、晩年の詩を読めば明らかです。

戦場で死ぬなら本懐だと強く思っていたのが伺えます。

僻地でただ寂しく生きていくならば、戦火に焼かれて死んだ方がいい!と。

第三者からしたら、「ちょっと落ち着こうかw」と言いたくなる発想ですが、そこで上述されている「他者への攻撃性が行き場をなくした結果の転化」という概念が説明してくれるわけです。

誰に憤りをぶつけたらいいか分からないんです。

もしかしたら曹丕を憎んだかも知れない。

それでも曹丕に手を上げるまでには至れない。

文学というのは今も昔も少なからずカタルシス的要素を持ちます。

同講演の中で、文学の特性として「内面の表出、吐露」「内面を隠蔽するためという逆説的な役割」と二点挙げられています。

ここで、「責躬詩」「応詔詩」の二詩が後者だと言われています。

どちらも曹丕に対して宛てたもの、しかも若年期のように遊びで詠み合ったものではなく、政治的要素の関わる謝罪と嘆願の文です。

今風に言えばフォーマルなビジネス文書に近いですね。

それも相当切羽詰まった時の(苦笑)

社会人ならば共感しやすいかも知れませんが、こういったものであれば普通は後者になりますよね。

それに引き換え、焼身願望が描かれた「吁嗟篇」は特に誰かに宛てたものでもなければ、いたって自由に詠まれた作品です。

ゆえに、前者の特性がありありと表われているんです。

自滅への欲求」「死の欲動」「他者への攻撃性が行き場をなくした結果の転化」どれも確かに曹植の心理の中にあったものには変わりありませんが、ここでもう一つ疑問が生じました。

上記の心理から導かれたものが全てならば、服毒や飛び降り自殺や切腹じゃだめなのか?という疑問です。

どうして火にこだわったのでしょう。

憶測の域に過ぎませんが、私は儒教への反抗心が根底にあったのではないかと考えました。

儒教では身を焼くなどとんでもないこと、死してなお火葬は厳禁でした。

曹操や曹丕の薄葬令を見ていると「この人達ほんとに儒教知ってる?w」と思う有様ですが、そこはまぁ今は置いといて。

自ら身を焼く=儒教を反故する=儒教が主張する兄弟や家族の繋がりをも反故する、という方程式が導かれていたとしたら。

曹植なりの、曹丕への反抗だったのかも知れません。

私はこの兄弟仲は悪くなかったと主張していますが、だからといって曹植が聖人君子のように曹丕の指示を全て受け入れ憎まず恨まずだったとは到底思っていません。人間だもの。


初めて三国志学会に行ってきました!

論文集ほしさに会員になっちゃいました。

試しに見せてもらった時、1ページ目から「曹植」というワードがあったので瞬殺されました。

詩聖ってそんな魔力持ってるんだね。

これから三国志学会会員という肩書きは名乗れますね(笑)


さてと、講演の方なのですが、とにかく喋る方も聴く方もレベルが高い!!

そして服装も割とフォーマル(笑)

私は全く知らなかったので一応、ビジネスカジュアル的なファッションで行ったのでセーフ・・・だったのかしら。

普段の三国志イベントの時のノリでいたら確実についていけません。

自ずと気合いが入りますね~。


講演、お一人目は蜀の南征とシルクロードについて。

地理や史学的な分野に疎い私は普通にシルクロード=交易路だと思ってました。

交易路もそうなんですけど、元は宗教や軍事や民族交流のための道だったそう。

そして、曹丕が好んだ葡萄とかライチとか梨も輸入品ですからね、結局文学作品に関わる文化的背景のために、シルクロードについては網羅しておきたいところでした。

地理が苦手なので、難しかったですけど。。

私が勉強不足すぎましたっ。


お二人目は日本文学が専門の方で、「太平記」と三国志の比較。

実は私も元は大学で日本文学を専攻していたので、話がすっと入ってきました。

説明も殆ど前後することなく分かりやすいし、レジュメに書いてあるところと口頭で言うところの区別もはっきりしていたため、補足メモをいっぱい取ったからか凄く印象に残ってます。

「太平記」と三国志は時代背景が似てる時期のものだから、「太平記」の中に三国志の喩えがいっぱい出てくる。

更に、「太平記」には日本文学特有の美しい表現が用いられているので、その表現が今度は「通俗三国志」に現れている・・・という相互作用的なお話でした。

あと一年半早く聞きたかった・・・こういう視点なら無理やり卒論のテーマにできたかも知れないのに。。


三人目の方は異姓養子の劉封と同姓養子の関平(演義)の比較。

二冊の異なる演義本の表現を比較して、どちらが良いものとして書かれているかが論じられていました。

この二人の比較の場合だと、明らかに異姓養子は悪だとされ、同姓養子は良いものとされているのが分かりました。

親に対する劉封の不忠と関平の忠義が対照的に描かれていたからです。

もし、めちゃめちゃ親孝行な異姓養子がいたとしたらどうなっていたんだろう・・・と素朴な疑問が浮かびましたが、質疑応答タイムで質問や意見を言う方のクオリティーにも圧倒され言えなかった・・・(笑)


四人目の方は劉楨をメインに、梁の時代の江淹という人が建安詩人を模した詩に関する論でした。

実際に模されているのは曹丕、曹植、劉楨、王粲の4人の詩です。

江淹なりきり版(笑)ももちろん目を通したことはあるので、改めて読んでみて色々思うところが。

これについてはまた別記事で書いてみたいなぁ。

とりあえず、劉楨の模擬作品は割とそれっぽいと思うのですが、曹植は全然曹植っぽくないよね~とか。

建安詩人の公宴シリーズが大好きな(というか元は曹丕と曹植の仲良し説が窺えたため)私としては、宴が建安文学の中心という意見は嬉しかったですし、もっともだと思いました。

建安文学サロンの人々がこうして一同に会して、名文を次々に残していったんでしょうね。

絶対、散逸しちゃってるものもまだまだ沢山あるはず。

建安文学全体について、絶望の言葉の繋がりから生きる力が見出せるという意見も同感です。

だからこそ、曹植の晩年の不遇な詩が評価されたのではないでしょうか。

あと、興味深かった資料が載ってまして。

伊藤正文先生の「建安詩人とその伝統」からなのですが、「より知的な王粲に対してより情的な劉楨」と。

私が以前、曹丕の典論における文人評をまとめた限りだと、書かれた順番と表現的にも劉楨は応瑒と対比されていたように思うので。

というか典論だと王粲は賦が上手いとしか書かれてないので(笑)判断材料不十分だとして、この方程式で行くと王粲と応瑒は似ているのか?など疑問が出てくるわけです。

そもそも知的と感じるか情的と感じるかというの自体、個人の捉え方による気もしますが。

先日の「七哀詩」(王粲)なんかだいぶ扇情的に感じますしね。

っと、脱線しまくった!!(笑)

この発表の時私はやっと勇気を出して質問ができました。

前に江淹版の「芙蓉池作」(江淹版だと「遊宴」というタイトル)を目にしていて、その後でたまたま劉楨(こっちは本家)の「公讌」をブログに載せた時にちょっと「あれ??」と思ったことがあったんです。

それが、レジュメに「遊宴」全文が載っていたことで確信に変わりました。

「遊宴」と劉楨の「公讌」で、「月出照園中」のフレーズが全く一緒なんです!

こっそり携帯からこのブログ開いて、劉楨の過去記事探して確認しちゃいました。

情景描写の定型なのかな?とか思いつつ、何か関係あるんですかってお尋ねしました。

そしたら、公宴詩は同じ寿ぎの表現をすることが多いとご回答をいただけました。

五文字全部同じなのも珍しくないんだって。

今までは確かに表現似てるな~とは思いつつ、例の銅雀台のアレしか把握してなかったので同じ景色見て詠んでるんだからそりゃそうか、とスルーしてた自分恥ずかしい(苦笑)

今更ながらすごく貴重な資料を得られたと思います!

・・・つーか、三曹建安七子ネタになった瞬間感想長っ。

殆ど脱線で申し訳ない(苦笑)


最後の方は人物評論における「清」という文字の使われ方について。

時間が押してたのか質疑応答タイムが無かったので、ここで書いてすっきりします、わかる方いたらコメントで教えてください(笑)

と言っても、個人的な興味すぎてあの場で質問するのは申し訳ない内容なんだけどね。

はい、人物=三曹建安七子の人達に限った疑問です。

文学論の「清」字という段落があり、陸機の「文賦」や鐘嶸の「詩品」など、文学評論の文中に限って提示してたのですが、これらの作中に名前が無いはずのない三曹建安七子はここでは一人も挙げられていない。

つまり、「清」と評されることがなかったと言えます。

そもそも文学論を持ってくる時に不可欠と思われる典論(論文)も出典すらない。

典論論文だと見た感じ「気之清濁有体」とは言っていても、その前の人物評では確かに誰の気が清だとか濁だとかは言ってないですね。

この時代、「清」は重視されなかったのか、それとも単に三曹建安七子の中に「清」と表せる人がいなかっただけのか。

なぜ??

というのが疑問です。

そもそも「清」の定義っていうのが難しいですが、レジュメの最後に「清」字との相性という段落があって、そこ見てると少し見えてきました。

(「清流派」「清談」などは別枠。)

相性がいいとされる字だけリストアップしてみます。

淡・苦・寒・明・新・雅・長・易・痩・軟・賢・薄・白・陽・細・貴・貧・軽・弱・浅・虚

これをひっくるめたのが「清」っていう字!

って意味わからんですね、つまり、上のリストの漢字のどれかに置き換えが可能、ってコトなんだと思います。

そう考えると・・・例えば「雅」な人なんかは居てもおかしくない気がするんですよね。

実際、典論の中で曹丕も「奏議宜雅」と言っています。

雅やかな奏議をしたと認められた人・・・全然いなかったのかな?

他の字に関しても言えるけど。


今更なんですが、このブログ学会行ってない人からしたら意味不明じゃないですか?(笑)

こちらにはレジュメがあるんでいいですけど、内容・・・伝わってない悪寒。。

三国志学会に参加してきました!

講演についての感想とかは追って別記事で書きます。


学会の懇親会で、渡邉義浩先生にこの先の相談を聞いていただく機会がありました。(というか、ゆっくりお食事中のところ奇襲して申し訳ない・・・)

思いのほか、専門的に学んだ経験ゼロで進学するのは難しいと知りました。。

院試のハードルがハンパない・・・大学から中文にいて卒論も書いてればそのまま行けちゃいそうだけど。。

ですが、先生は二回しか会ったことないにも関わらず、長年教えている学生相手かのようにもの凄く親身に聞いてくださって、六朝文学系を専門にしている先生方に私を紹介してくださるそうです。

びっくりです・・・確かに本気の熱意は伝わったと思いますが、学術的なものは何一つお見せできてない段階なのに、いいの!?って感じでした。

そのため、再来月の六朝学術学会に参加してきます☆

ぐぐったらまだ詳細出てませんでしたが、土曜日ということで参加できる見込みなので!

というかそんな千載一遇のチャンス、仕事あっても仮病仮病(笑)


院試のハードルというのはつまり、

中国語を読めるレベルにはしておくこと・卒論くらいの論文を一本持ってくこと・漢文は普通に読めるようにしておくこと(こんなブログやってますが、PCで漢字調べながらじゃないと書き下せません・・・ピンチ)

別に好きなことなので苦でも全然ないんですが、問題は仕事が尋常じゃないくらいハード・・・というかぶっちゃけてしまうと誰に言っても「有り得ない!」と言われる労働時間と給与のグレー企業なので、論文とか書いてる暇がないという。

貯金もほぼ無い状態から働いて貯めているので、すぐには辞められないし。

でもやるしかないです。

文献は通勤時間に読んだり。

ありがたいことに、三国志フォーラムの方々をはじめ周りの友人達も充実のサポート体制なのです。

使えそうな本譲ったり貸してくれるって言ってくれたり、極力効率的にやっていくためのアドバイスをくれたり。。

人生の先輩方に頭が上がらなくなりそう・・・☆


中国語、漢文っていう語学に関してはとりあえず興味あるものから読んでマスターしていきます☆

基礎からやれよwって思われるかも知れませんが、私なりに考えた勉強方法なんです。。

というのも、完全素人が試験に通るレベルになるにはどうしたらいいかって考えた時に、中1の時に英語どうやって覚えたかな~とか、そもそも生まれてすぐに日本語どうやって覚えたかな~とまで及んだんです(笑)

結局、今となっては後悔材料でしか無いですが、不真面目な馬鹿学生の典型だった私は最初から教科書なんて見てないですし宿題もやっていった事がない(笑)

それでも大学入試に受かるレベル、更には適当に喋っていたらバイト中にネイティヴのお客さんの接客ができていたレベルになってた所以がどこにあるかというと、当時ハマってた歌(アーティスト)でした。

J-POPだったんですけど、今ほとんどがタイトルも歌詞も英語だらけじゃないですか。

その意味が理解できないのが嫌だったんですよねー。

電子辞書叩きながら、文法はフィーリングで解釈していってました。

で、歌詞カードは容赦ないので気付くと自分の学年以上の単語や文法が身についていたという(笑)

逆に、教科書使って一からやった大学時代の第二外国語(韓国語)は全然覚えられなかったなぁ・・・ハングルくらいは読めるけど(意味はry)、結局韓流の何かにハマってるとか無かったので覚えが遅くて(苦笑)

あときっと生まれてから知らないうちに日本語覚えてたのは、必要に迫られたからだと思うんです。

同じように読めないと困るってなったので、死活問題な勢いで吸収するつもりです。


かなり沢山の人が応援してくれてるから、本気出します!

ブログの更新も減るかも知れませんし、趣味の小説は一旦執筆停止せざるを得ませんが、見違えるくらい知識つけてもっといいもの書いてみせます!

見守って頂けると幸いです。

勉強のため、王粲の「登楼賦」に関する論文を中国語で読んでいるので、ちょこっとメモ書き!

前回唐突に王粲の「七哀詩」を持ち出したのもこの関係で思い出したからです。

論題としては、「登楼賦」の「楼」とはどこの城のものなのかということです。

という事で、資料用に拾ってきた書き下しを貼りっ。

原文はネットでは見当たらなかったです。。

まぁ、論文自体は内容理解だから、原文なくても何とかなるんだけど、原文の韻の響きが好きなのもあるのでブログとして物足りない。

本には付録として載っているんですが(笑)


茲の楼に登りて以て四に望み、聊か暇日以て憂いを銷す。斯の宇の処る所を覧るに、実に顕敞として仇寡なし。清漳の通浦を挟み、曲沮の長洲に倚る。墳衍の広陸に背き、皐隰の沃流に臨む。北のかた陶牧を彌り、西のかた昭丘に接す。華実野を蔽い、黍稷疇に盈つ。信に美なりと雖も吾が土に非ず、曾ち何ぞ以て少く留まるに足らん。

紛濁に遭いて遷り逝き、漫として紀を踰えて以て今に迄る。情眷眷として帰らんことを懐う、孰か憂思の任う可き。軒檻に憑りて以て遥かに望み、北風に向かいて襟を開く。平原遠くして目を極め、荊山の高岑に蔽わる。路逶迆として脩く迥く、川既に漾として済り深し。旧郷の壅隔せるを悲しみ、涕横に墜ちて禁ぜず。昔尼父の陳に在りしに、帰らんかの歎音有り。鍾儀幽われて楚奏し、荘舃顕れて越吟す。人情土を懐うに同じ、豈に窮達して心を異にせんや。

日月の逾え邁くを惟い、河の清むを俟つに其れ未だ極らず。冀わくは王道の一たび平らかなりて、高衢を仮りて力を騁せんことを。匏瓜の徒らに懸からんことを懼れ、井渫の食らわれざらんことを畏る。歩みて棲遅して以て徙倚し、白日忽として其れ将に匿れんとす。風蕭瑟として並び興り、天惨惨として色無し。獣狂顧して以て群れを求め、鳥相鳴きて翼を挙ぐ。原野闃として其れ人無く、征夫行きて未だ息まず。心悽愴として以て感発し、意忉怛として憯惻たり。堦除に循いて下り降り、気胸臆に交憤す。夜参半までにして寐ねられず、悵として盤桓として以て反側す。


読んでいる本は「古当阳」という、歴史に残る名所について書いた本です。

三国志系のオフ会に参加した時に頂いたものです♪

三国志に関係ありそうなところから読んでいっているのですが、王粲の以外だと関羽墓、長阪・・・この辺はいいとして、びっくりな事に周倉の墓まで載っているんです!

周倉って・・・実在したの?(爆)

王粲のくだり読み終わったらこっちも熟読しよう。

中国語が全くと言っていいほどわからない状態から始め、読み途中であれこれ語るわけにはいかないのですが、備忘録的にメモっときます。

モチーフになった城として考えられるのは四箇所。


1:当陽城

2:麦城

3:江陵城

4:襄陽城


「荊州記」には当陽城とある。→後の論で否定

「水経注・漳水」には麦城?

「文選注」には江陵城とある。

明王世貞は襄陽と言っている。


本文に記された景色の位置関係から、麦城とする説が有力みたいですが、一番問題なのはこの国・・・大事な名所を簡単に移転するから(苦笑)

さくら剛さんの「三国志男」を読んでいたら、「劉備が亡くなった場所」が移転されそうになってたとか書いてあって愕然としました。

名所の意味ないじゃん!!

「時代遡って瀕死の劉備ごと移動させろ」と書いてありましたが、もっともですわ(苦笑)

なので王粲が登った城と、今その名前がついている城が違うかも・・・なんてね、言い出したらキリが無いんですけど。

満田先生と飲んでた時、「曹丕と司馬懿の墓の場所も実はわかってるらしい」とお聞きしたので、「首陽山ですよね?」と聞き返したら「当時はね」という事。

今は山の中とは限らないみたいです。。

目星をつけてもいいけど、曹丕の墓は掘り起こさないでほしいです。

漫画で、「人は二度死ぬ」という言葉を見かけたことがあります。

確か、二度目の「死」は忘れられた時、と書いてあった気がしますが、曹丕にとっては安らかな眠りを妨げられた時なんです。

墓を暴かれるのは、死してなお殺されるようなものだと。

ある意味、沢山残した文章の中で思想が生きているから、曹丕の認識では自分が「忘れられる」ことはないと思ってそうですね。

建安七子の一人、王粲の詩を紹介します☆

文学こそが史実だと主張できる所以、リアリティーの強さが滲み出ている詩です。



七哀詩 王仲宣


西京乱無象。

豺虎方構患。

復棄中国去。
委身適荊蠻。

親戚対我悲。
朋友相追攀。
出門無所見。

白骨蔽平原。

路有餓婦人。
抱子棄草間。

顧聞号泣声。

揮涕獨不還。

未知身死處。

何能両相完。
驅馬棄之去。
不忍聴此声。

南登覇陵岸。

回首望長安。
悟彼下泉人。 

喟然傷心肝。


--------------------------


西京 乱れて象無く

豺虎 方に患を構う
復 中国を棄てて去り

身を委ねて荊蠻に適く

親戚 我に対いて悲しみ
朋友 相い追い攀る

門を出れども見る所無く

白骨 平原を蔽う
路に餓たる婦人有り
子を抱いて草間に棄てる
顧みて号泣の声を聞く
涕を揮いて獨り還らず
未だ身の死する處を知らず
何ぞ能く両ながら相い完からん

馬を驅りて之を棄て去り

此の声を聴くに忍びず
南のかた覇陵の岸に登り
首を回らして長安を望めば

悟る、彼の下泉の人

喟然として心肝を傷ませる


董卓が死んで間もないくらいの頃、戦禍から逃れるためと祖父の弟子であった劉表を頼るため、王粲は長安の都を出て荊州に向かいました。

その時に詠んだ詩です。

飢餓の凄まじさ、惨い光景が写実的に描かれています。

心情のみならず景色までも偽りなく記すことができる、詩賦の特権です。

当時の視点からビデオカメラを通じてレポートされているような臨場感に、思わず鳥肌が立ちます。

有名な詩聖・杜甫が数多く遺した史詩というジャンルにまさに通じる一編ですね。

六朝時代の評論家である劉勰、鐘嶸、沈約という人々は、建安七子といえば王粲!と言うくらい評価されている詩人だからこそ、こういった詩の特徴であるリアリティーという面も備わっていたんじゃないかと思います。

史詩という類ではありませんが、皇帝曹丕の詩の中でさえ貧しい民衆の暮らしが触れられていたりします。

「上留田行」という歌で、リズムを取りながら陽気に歌う民謡のような形態を取っていますが、そこには「富める人は稲と粟を食す 貧しき子は糟と糠を食す」と身分の大きな違いと食文化が述べられています。

糠って、米糠みたいなものなんでしょうかね。

貧しい人の方はお腹いっぱいになりそうもない食事です。

この「上留田行」の評価については多々ありますがそれはまた別の機会に。

こういった側面も踏まえ、まさに文章は不朽の盛時だと再確認させられます。

ビデオもテレビも無い時代、自分の周り以外の状況を窺い知るためには、このような精巧な表現力を持った文章に頼る以外ないのですから。

これ凄いですね。
三国志好きならおそらく知らない人はいない、諸葛亮の「木牛」。
なんと、自作で再現した人がいるとか…。

経国之大業―三国志・乱世の詩人に恋して-ファイル0158.jpg

ニュース記事

気合い入ってますねー。
乗るの楽しそう(笑)

行ってきました!

最近三国志関連のイベントにちょくちょく顔を出すようになったので、いつの間にか知っている方が多くなってて楽しかったです☆

例の三国志飯は、赤壁カレーでした!

・・・中華じゃないしインドだし!!ナマステっ!!(笑)


経国之大業―三国志・乱世の詩人に恋して-100905_1330~01.jpg


ご飯が壁を表してて、から揚げが船を表してるそう。

ほら、心の目で見れば赤壁の戦場で連合軍と曹操軍の熾烈な激戦が見えてく~る・・・。

トークテーマは横山三国志検定について。

おくまんさんがおなじみのイラストつき紙芝居を作ってきてくれまして、今回は検定の予想問題でした!


経国之大業―三国志・乱世の詩人に恋して-100905_1343~01.jpg

わからん(笑)

ちょっと写真だと文字と絵がぼやけて見えづらいのですが、十常侍の絵が描いてあって、「この中で蹇碩は?」という問題でした。

ちょっと待って何で十常侍がヒゲなのっ!?というレベルの私には分かるはずもなく(笑)

その他の問題はわかりましたけどね。

一問目の「劉備の母が川に投げ捨てたものは?」で思いっきりボケて「阿斗☆」と答えようかと思いましたが皆さん真面目に考えていたのでやめました。

おくまんさんはトーク面白すぎます!

ストライクゾーンが狭い私が本気で笑います。

ちなみに、十常侍っていうか宦官になるための手術って、致死率50%なんですって・・・。

大抵は貧乏の人が富を得るチャンスのために宦官になることを試みるんですが、人生逆転ゲームのカイジも真っ青なリスクですなぁ。。

曹操の墓の真偽の話もやっぱり挙がりました。

正直なところ、まだわかんないですねコレ。

電動ノコギリの跡っぽいのがある発掘品とか言われてますけど。

私的には、散々盗掘されてる=人が入れる道が出来てるので、そのニセ発掘品は後から誰かがそれっぽく追加したものなんじゃないかな~と考えているわけですが。

そりゃ、曹操好きとしては信じたい気持ちが強いですね。


結局、2次会、3次会までお邪魔してきちゃいました!

現在飲みすぎてハンパない頭痛だなんてブログに書いたりしません、内緒です。

2次会の会場に行く途中で満田先生に聞いたお話が興味深かったです♪

まず鄒氏のこと。

鄒という名前は本当かは微妙だそうです。

でも、曹操を引っ掛けた女性がいた事は史実、という見解。

そんな曹操の人間らしさも魅力!と話してました☆

私が当事者(丁夫人)だったら確実に半殺しまでぶん殴って離婚するけどネ☆

そこから、曹操は化け物を信じてたのか~という話になり、当時のミステリーについて私も興味があるので、列異伝の話を持ち出してみたり。

曹丕が編纂したことになってるけど年代おかしいんですけど、と、結局私が話し出すとこうなる(笑)

文学の年代って、本当にわからないんですよ・・・。

だいたい○年~○年くらい?と推定するのがやっとで、それもままならないので、割と私が研究しようとしている事って前途多難なんだなーと実感(苦笑)

在学中までに何か大きい出土品出てこないかなー(笑)

あと、軽いノリであってガチなディベートではないですけど、飲みながら「自分が孔明だったら馬謖を斬るか」という意見交換をしました♪

満田先生曰く、「何で」斬ったのか、が問題なのでそれにもよってくるという事。

逃げようとしたから斬った、という説もあるそうです。

集いの時に全員に多数決取った時は半々くらいに割れてましたが、私の意見は斬る派です。

支持を反故して独断で動いちゃう人をほっといたら危険じゃないですか。

しかも、ファースト北伐の大事な時期です。

空気読め!!って言いたくなります(笑)

仮に街亭で魏が何らか事故ったりして奇跡的に蜀が勝ってても、先々不安です。

「憂いを断つ」という意味で、キビシイけど当時は仕方なかったのかも知れないなぁ・・・と思います。

王平に監視役をさせつつ、孔明は馬謖を試したのでは?という話もありましたが、結局王平は山登りを止められなかったんですね。。

この、「憂いを断つ」って、死と隣り合わせなこの時代に特に大事なコトなんですよ。

これは今日、満田先生から聞いたのですが、賈クは自分の経歴が裏切りまくりという難があるので、今後疑われないために自分の子供は全員一般庶民に嫁がせて、お偉いさんのところには行かせなかったそうです。

しかも、仕事はしっかりこなすけどプライベートな付き合いは一切しなかったそうです。

口は災いのもと、という格言を知っていたかのようですね。。

そういえば曹操も「憂いを断つ」ために、頭が良すぎと警戒した楊修を殺したりしてますしね。

と、こんな感じで濃ゆい話題を長時間に渡ってしてきたわけです☆

いや~勉強になった!!

満田先生は凄いです、何聞いても答えてくれます。

参加者の皆さん三国志が本当に好きな人ばっかりって感じがしましたし、楽しすぎて帰りたくなかったです。

来週は三国志学会!拝聴に行く予定です。



日記番外編。

カリスマ小学生りょうくんの可愛さに癒されまくってきた私ですが、「このお姉さんいくつに見える?」との問いに対して「20代後半?」

「前半だよ、23だよw」と答えたら「でもあと2年で後半だね」

・・・(泣)

子どもって正直!!(笑)

でもカワイイラブラブ将来有望ですなぁー。

明日の三国志街道の集いですが、トークテーマは「横山光輝三国志検定について」だそうです!

張飛は三国志フェスの分ですね・・・すみません。


自分、横山三国志はあんまり詳しくないのだけど、ついていけるかな..?

三国志ハマりたて時期に吉川三国志は読んだのですが、当時は小説読んだからいいやーってなっちゃってて・・・最近になってしっかり読みたい!と思うようになったのです。

漫画をあまり読み慣れてないのもあり、高校時代に「あさきゆめみし」で登場人物が全然一致しなくて挫折したのでちょっと不安ですが(笑)

特に見たいのは、どの作品でもそうだけど曹丕の描かれ方ね。

確か曹丕が出てるのは40~49巻あたりでしたっけ?

曹丕に関しては自分の中でデータベースを構築していろんな作品の比較をしたいので、横山三国志も不可欠でしょう!

演義ベースで蜀視点の作品だから、魏が敵役になってるのは分かってるんだけど、今となってはそういう作品こそしっかり網羅させたいですね。

中古で買って集めたら幾らくらいで足りるかなぁー。。

ハマりたての頃は、好きな勢力が正統のものばかり好んでたけど。

演義より正史が好きなのはその名残・・・(苦笑)

演義ももちろん、小説としてはすごくハイレベルなものだと思いますけどね!

今、趣味でちょっとずつ、ホントにちょっとずつですが、三国志を題材にした小説を書き始めてるんですよ。

甄洛のスピンオフ作品なんですけど。

四人の男の中で揺れ動く傾国美女の愛憎ストーリー・・・昼ドラみたい(笑)

あれやこれやと有る事無い事脚色して、女性目線から見た当時の男女関係を描いてみたいなぁと。

なかなか難しいですね。

三国志フェスの際に、渡邉先生から「高校生クイズに出ます」とお聞きしていたので、仕事がろくに終わってないにも関わらずほぼ定時上がりで帰ってきました。

ちなみに、「??(・Д・)」な顔をする私に「回答者じゃないよ」と補足してくれました(笑)

見たら、諸葛亮に関する問題が出て、その解説者としてのご出演でした。

問題は、「誡子書」の文面がばーっと出てきて内容を読み解けってものでした。

読み解けと言われるとつい頑張って全訳に近いものを出してしまいそうになるんだけど、それじゃ不正解、とキッパリいうのは先生らしいというか・・・余白があると余計なことをあれやこれや書きたくなってしまう私も、三国志検定1級は取れる気がしないと思いました(笑)

あ、一応、学問を志す者の名誉のために言っておくと内容理解はさすがにできてますよ!

高校生クイズで分かった問題は、これと順徳天皇の句と河東碧梧桐とムーランルージュのみ・・・最後のは、自己紹介から察してください(笑)


ちなみに「誡子書」原文はこれなんですが、


夫君子之行.

靜以修身.

儉以養徳.

非澹泊無以明志.

非寧靜無以致遠.

夫學須靜也.

才須學也.

非學無以廣才.

非志無以成學.

慆慢則不能勵精.

險躁則不能治性.

年與時馳.

意與歳去.

遂成枯落.

悲歎窮慮.

將復何及.


訳:まぁ落ち着け。


・・・と(笑)

こんなに事細かに書いたのに孔明先生浮かばれません!!(笑)

とにかく、「」というワードがキーポイントなんですよね。

しかし漢文にはこういう説教じみたものも多いですが、全くもって毎回耳が痛い思いをします。

君子の行いは静かなるを以て身を修む・・・とか言われると、忙しなく功を焦りまくっている私ダメダメだなぁ。。

夫學須靜也.

才須學也.

それ学は須らく静なるべく、才は須らく学なるべし。

→学問には落ち着きが必要、才能には学問が必要。

つまり、才能ある「君子」になるためには結局落ち着きが必要と説くわけですね。

この方程式が読めればいいって事か。

それにしてもどうりで最近、勉強が頭に入って来ないわけだ・・・と愚痴も言いたくなりつつ。。

高校生クイズだとよく「天才」というワードが使われてましたが、学問と才能を結びつける論を立てているという事は、孔明は「天才」は否定派だったのかも知れないですね。

個人的にはこの部分が好きです。

非澹泊無以明志.

非寧靜無以致遠.

澹泊に非ざれば以て志を明かすことなく、

寧靜に非ざれば以て遠きに致すことなし。

一瞬の迷いが命取りになる乱世を生き抜いてきた人の言葉だから、重みがあります。

「寧静致遠」って四字熟語の元にもなってる言葉ですね。

なんか、原文の否定形よりこっちの肯定形の方が前向き感がありますね。

否定形で書かれるとプレッシャーを感じるというか(笑)

その辺も、時代と国民性なのでしょうか・・・?


先日、「文選」を手に入れて晴れてオフラインでも「典論」論文編や「与呉質書」などが読めるようになりました。
この本における典論の考察を見ていきます。



経国之大業―三国志・乱世の詩人に恋して-100902_2248~01.jpg


すみませんが原文は長いのでぐぐってください…。

私は前々から、「文は気を以って主と為す」という論が気になっています。

この本によると「気」とは、


気力・気息・語気・気韻の気であり、それには、清い体と濁れる体とがある。

「体」とは、作者の性格によって定まる所の体格である。

故に、清い気のものを濁れるものに、(もしくは、その逆なことを)しようと、いくら骨おりつとめても、それは獲得できない。


と書かれています。

つまりは、その人本人の才能と個性、微妙な心情などが合わさったものが文章であるという事でしょう。

その後に音楽に喩えた表現が出てきますが、演奏もさることながら、歌う事と文章を書く事が極めて似ていると私は考えます。

自己の放出、カタルシス的な要素をどちらも持っています。

口に出して言えない事も、歌や文字に投影すれば外に出してあげられる。

これは、三国時代など歴史上に於いて文章こそが史実だと主張する所以でもあります。

その時の感情が素直に表れる。

そして、最も重要な事は、そこに少なからず人格が表れる。

実際に歴史上の人物に会った事がなく、会える可能性もない現代の私たちにとって、その人のキャラクターを知る稀少な資料になるのです。

この論の中には成程、曹丕の「気」が溢れています。

以前にも触れたかも知れませんが、文章を至高のものとする事で、文学の基盤を作り数々の名文を生み出した自身の正当化に繋げている。

そればかりか、初代皇帝として魏国の頂点に君臨し至高の文学の才を示す事によって初めて、偉大な父を越えたと言わんばかりの気を感じます。

その文学に於いては弟の曹植の方が更に評価されがちでしたが、そこは「(奏議、論、誄、詩賦に必要な要素を挙げて)此の四科は同じくせず、故に之に能う者は偏るなり」と記しているのを見るに、詩の才は譲っても論の才はやっぱり自分の方が優れているとあえて優劣をつけるのを避けたようです。

40歳で死に臨んだ時、過去に80歳まで生きると占われた話を持ち出し「昼と夜を別に数えたのか」と言い訳したエピソードしかり、曹丕はかなり負けず嫌いな性格だったようですね(笑)

というか、自分の苦手な事も認めるけど、得意な事は誰にも譲らないといった感じ。

でも確かに、「論文」の言わんとする事は尤もで、否定できません。

文章は残るから、だからこそ今でもなお「遺言」というものが存在してるのではないでしょうか。

唯だ幹は論を著し、一家言を成す」と〆られていますが、残して初めて「成した」と言えるのです。

ここでいう「一家言」とは、前述の「気」とほぼ同義で、「気」が「論考」となる過程を経、記されることによって形を得たもの、だと解釈しています。

言った通り「気」が才能と個性と心情を含めるものだとすれば、まさにそれはその人自身と言っても過言ではない。

再三に渡り著作の中で命の儚さを嘆いていた曹丕は、「気」が具現化された文章の中で永遠に生き続ける事を美徳とし、そこに唯一の望みと救いを見出していたのでしょう。