殺人犯になった医師

つくば妻子殺害事件

1994年

以前にこのブログでは、医師である夫が、愛人をつくって同じ医師の妻を殺害した「千葉大学女医殺人事件」を取り上げました。

 

 

人の命を救う立場の医師が、人の命を奪うという事件には社会の注目が大きく集まることもあってでしょうが、それ以外にも医師が殺人犯となった事件がいくつもあります。

 

今回はそのうち、1994年に起きた「つくば妻子殺害事件」を取り上げます。
 
1994(平成6)年11月3日、横浜市鶴見区の横浜港(京浜運河)で、ビニール袋に入れて重しがつけられた女性の遺体が腐敗によるガスで海面に浮き上がり、発見されました。
続いて7日には女児の遺体が同様に見つかり、2人はつくば市大字真瀬に住む野本映子さん(当時31歳)と長女の愛美(まなみ)ちゃん(同2歳)であることが分かりました。
 
映子さんの夫で医師の野本岩男(同29歳)から11月3日に妻子3人の家出人捜索願が出ていたため、行方の分からない長男・優作ちゃん(同1歳)の発見に努めていたところ、12日になって海底に沈んでいた長男の遺体が見つかりました。
 
毎日新聞(1994年11月26日)
 
 
引き揚げられる優作ちゃんの遺体
(「FOCUS」1994年12月7日号)
 
夫の岩男が、10月29日の夕方に勤務先から帰宅すると家族がいなくなっていたと述べたため、警察は慎重に捜査を進めていましたが、11月25日になって、彼が妻と子の3人を殺害して運河に遺棄したものと断定し、殺人と死体遺棄の容疑で野本を逮捕しました。
 
野本映子さんと愛美ちゃん、優作ちゃん

毎日新聞(1994年11月25日夕刊)
 
警察の調べによると、野本が妻子を殺害したのは1994年10月29日の朝で、まず自宅の1階で激しい口論の末に妻の映子さんを絞殺し、さらに「父親が殺人犯で母親もいないのでは子どもたちが不憫だ」と2階で寝ていた2人の子どもを次々と首を絞めて殺したのです。
 
その直後には自殺をするか自首するか考えたと野本は供述していますが、映子さんの遺体を2階に運んだ時にすでに出勤時間を過ぎていることに気づいた彼は、とりあえず行こうと勤務していた茨城県猿島町(現在は坂東市)の豊和麗(とよかずれい)病院に1時間遅れて出勤しました。
 
野本岩男
 
その日は土曜日で、午前診療を終えたころになると、もう野本の頭からは自殺や自首は消え、妻子の遺体を海に遺棄して犯行を隠すという考えしかありませんでした。
 
帰宅した彼は、3人の遺体をそれぞれビニール袋とガムテープ、ロープで梱包し、家にあった鉄アレイを重しとしてくくりつけ遺棄する準備を整えました。
 
鉄アレイ(例)
 
この日は夕方から日立市内の病院で当直勤務のアルバイトがあったので出かけた野本は、翌10月30日の午後になって帰宅します。
 
遺体の遺棄は夜になってからと考えた野本は、東京まで車で出てスポーツ用品店で鉄アレイを追加購入し、そのあと呆れることに新宿の歓楽街でストリップとソープランドに立ち寄ってから帰りました。
 
買ってきた鉄アレイをくくりつけてから(映子さんには合わせて3本6kg、子どもたちにはそれぞれ同2本4kg)、妻の遺体を車の後部座席に、子どもたちの遺体をトランクに入れ、10月31日の午前1時前に野本は自宅を出ました。
 
事件発覚後、報道陣が詰めかけた野本の自宅
(毎日新聞、11月18日撮影)
 
当初彼は、茨城県北部の海に行こうとしたようですが、道を間違ったために仕方なく土地勘のある横浜市鶴見区の大黒埠頭に車を停め、「無造作に高い橋の上から」(地裁判決文)京浜運河の海中に3人の遺体を次々に投げ込んだのです。
 
死体遺棄現場
 
野本岩男はなぜ妻子殺害という凶悪な犯罪をおかすに至ったのでしょうか。
また映子さんはどんな人だったのでしょうか。
横浜地裁の判決文や新聞雑誌の記事を参照して、2人の人物像や夫婦の関係について見ていきましょう。
 
野本岩男は、1965(昭和40)年、茨城県岩井市に農家の次男として生まれました。
子どものころから勉強ができた野本は、小学校では「神童」とさえ言われていたそうです。
伝統校の茨城県立水海道(みつかいどう)第一高校を卒業し、一浪して1984(昭和59)年に筑波大学医学専門学群に入学した野本は、1990(平成2)年に卒業して医師免許を取得すると、同大学附属病院の研修医となります。
 
その時に野本は、附属病院にほぼ隣接した筑波メディカルセンターで看護助手のアルバイトをしていた映子さんと知り合いました。
 
その時すでに野本には結婚を考える仲の大学時代同期だった女性がいたのですが、それにかまわず映子さんを「小柄でかわいく思って」(地裁判決文)交際を始め、深い関係になりました。
 
白衣を着た映子さん
 
野本の女性関係のだらしなさは、結婚するのは32、33歳になってからで、それまではできるだけ多くの女性と付き合って遊びたいという彼の考えによるものでした。
 
ですから、“婚約者”の女性も映子さんも、野本にとってはセックス目的の一時の遊び相手以上ではなかったのでしょう。
 
そんな男との出会いが映子さんにとっては不幸の始まりでした。
 
映子さん(旧姓・堀崎)は、東京都大田区に会社員の長女として生まれました。
野本より2歳年上です。
 
 
1982(昭和57)年に私立の女子高を卒業すると専門学校に進学しますが、翌年には中退して、高校時代から付き合っていたそば屋の息子である男性と結婚しました。
 
2人の間には男児2人が生まれます。
しかし結婚生活はうまくいかず、1988(昭和63)年5月に彼女は子ども2人を連れて別居し、1989(平成1)年3月に離婚しました。
 
離婚前から彼女は看護学校に通っていましたが続けられずに中退し、離婚後の10月から先にあげた筑波メディカルセンターで看護助手として働き始めたのです。
 
1990(平成2)年8月に野本と交際を始めた映子さんは、2人の子どもを前夫が引き取ったことから、同年秋ごろ野本のアパートで半同棲生活を始めます。
 
2人とも医療関係者にもかかわらず、避妊など考えなかったのでしょうか、映子さんはすぐに妊娠します。
その時は野本が子どもを堕ろすよう強く求めて彼女は妊娠中絶しました。
 
「FOCUS」によると、ほぼ同じころ野本は“婚約者”にも中絶させているとのことなので、この時点でもまだ「二股」をかけていたのでしょう。
 
「FOCUS」1994年12月7月号
 
ところが、妊娠中絶してまもない1991(平成3)年1月に、映子さんはまた妊娠したことが分かります。
 
野本は今度も堕ろすよう求めます。
しかし映子さんは、結婚してくれなくていいから子どもを産みたいと強く望みました。
 
中絶させようとする野本と産もうとする映子さんの間で争いもあったようですが、彼女は妊娠を継続し、約束どおり臨月が近づいても野本に結婚を迫ることをしないで、11月18日に愛美ちゃんを出産しました。
 
愛美ちゃんを抱く映子さん
 
生まれた子どもを見たことや、また1人で子育てしようとする映子さんの健気(けなげ)さにほだされたのか、野本は「女とは遊び」という自分の信条に背いて、11月30日に婚姻届と出生届を提出してしまったのです。
 
本心では強く願いながらも諦めていた野本との結婚が現実になったことに、映子さんが喜んだのは言うまでもありません。
 
「私とまなみを扶養家族に入れてくれるという。
うれしい。本当にうれしい。
望んではいたけれど本当に現実のこととなるとは、
本当にうれしい。」
(映子さんの日記)
 
ところが判っていたことでしたが、婚姻届を出した翌日の12月1日、茨城県日立市内の病院に野本は転職し、映子さんと生まれたばかりの愛美ちゃんを置いて単身赴任します。

週末には家族のもとに帰ってくることにしていたものの、平日は身軽な「独身」生活に戻った野本は、勢いで結婚してしまった自分の軽率さをすぐに後悔し、また病院の看護師に手を出し始めます。
 
そうして、結婚からわずかひと月後の1992(平成4)年1月には、彼にはすでに複数の女性との関係があったようです。
 
「女遊び」がやめられない野本は、やがて週末になっても家族のもとに帰らないことも起き、映子さんは夫の「浮気」を疑って野本を問い詰め責め立て、行動を探るようになります。
 
そんな妻を疎(うと)ましく思い、野本の気持ちはますます彼女から離れていきます。
 
しかしすべてが遊びの野本は、妻ときちんと話し合おうともせず、その場限りのごまかしを重ねて、不誠実な生活をずるずると続けていったのです。
 
その間も彼は、出身大学の「医局」(医学部の教授を頂点とする人事組織)の指示に従って、系列病院を移っていきます。
 
1992(平成4)年10月末、映子さんの希望でつくば市内に(のちに殺害現場となる)一戸建て住宅を借りて家族が一緒に住むようになり、翌年(1993)2月18日に長男の優作ちゃんが生まれます。
 
優作ちゃん
 
実は、長男を妊娠していた時、映子さんは流産の恐れがあるということで数ヶ月入院しています。
 
妻の入院中、愛美ちゃんの世話は野本がしており、それからしばらくが彼が「女遊び」を控えて家族と関わった数少ない期間であり、映子さんにとっては家族らしい暮らしができた時だったようです。
 
愛美ちゃんを抱く野本
 
1993(平成5)年4月、医局制度の縛りを脱してより給与の高い病院に勤めたいと思った野本は、父親の伝手(つて)で医療法人清風会「豊和麗(とよかずれい)病院」に転職しました。
 

FOCUS 1994年12月7日号


この転職については、野本の経済的な事情があったようです。
開業医ほどでないとはいえ、勤務医として野本は年収一千万円を超えていたはずですが、彼には「浮気」相手に使う金の他に、投資目的でローンで大阪と北九州に購入したマンションがバブル崩壊後の価格暴落で負債になっていたこと、競馬などのギャンブルで一度に100万円という賭け方をしていたことなど、出費も並外れて多かったのです。
 
豊和麗病院に移ってからの野本は、月に手取りで約100万円の給与を得られるようになり(加えて他の病院でのアルバイト勤務の報酬があったと思われます)、そのうち40万円を家賃支払いを含む生活費として映子さんに渡し、残りを自分のクレジットやローンの支払いと小遣いにしていたそうです。
 
自由に使える金が増えた野本は、豊和麗病院の看護師にも手を出すようになります。
 
夫婦の間に夫の女関係をめぐってのいさかいが再燃し、野本も家事・育児をおろそかにしていると妻をなじってケンカが絶えず、身長180㎝と大柄な野本が150㎝の映子さんに暴力を振るうこともあったそうです。
 
映子さんへの気持ちがますます冷えた野本は、お気に入りの看護師と結婚をほのめかして外泊デートするようになり、妻に生活費を渡さない月もでてきました。
 
それに対して映子さんは、女性との付き合いをやめるよう夫に迫り、野本から彼女の名前を聞き出すと直接会って絶対に離婚はせず慰謝料を請求すると言ったり、野本の父親に彼の浮気を訴えたりしました。
 
父親から厳しく意見され、妻からは浮気相手と同じ病院にいるのは許せないと転職を迫られた野本は、給与条件の良い今の病院はやめられないと考え、妻のご機嫌取りに休暇を取って家族旅行をするなど「家族サービス」をして見せたそうです。
 
けれども、そんな簡単には夫を信じられない映子さんに、事あるごとに疑いの目を向けられた野本は、原因が自分にあることは棚に上げて、「これだけ自分が努力しているのに!」と妻への憎しみを一層つのらせました。
 
事件の6日前の10月23日昼間から24日早朝には、愛美ちゃんも見ている前で、売り言葉に買い言葉の感情をむき出しにして罵り合い、包丁を持ち出した映子さんが野本を追いかけ回すという激しい夫婦げんかが起きました。
 
(映子さんの日記)
 
このケンカの後、映子さんは「気力を一層無くし」て(地裁判決文)食事もつくらなくなり、夕食は野本が弁当を買って帰って家族で食べるようになりました。
 
10月26日には、両親の激しいケンカに幼心(おさなごころ)が傷ついたのか、まだ2歳の愛美ちゃんが「家出」をし、近所の人が見つけて自宅に送った時には、「ここは自分の家じゃない」というそぶりを愛美ちゃんがしたそうです。
 
野本愛美ちゃん
 
それを知った野本は衝撃を受けたと供述していますが、悪いのは妻だと思っている彼の目には、映子さんは何の責任も感じていないかのように見え、それがまた彼女への怒りをかき立てました。
 
10月28日、野本が買ってきた弁当を4人で食べた後、映子さんは黙って2階に上がっていきます。
やがて眠くなった子どもたちを2階で寝かしつけた野本は、1階のソファーに横になって眠りました。
 
一夜明けた10月29日午前5時半ごろ、起きてきた映子さんが1階で寝ていた野本に、「私と一緒に寝るのがそんなに嫌なの!」となじったことから、また激しい言い争いが始まります。
 
興奮してロープを持ち出し自分の首に巻きつけた映子さんは、「そんなに嫌いなら私を殺して!」と言ってロープの両端を野本に持たせました。
 
その時はロープを持つ手をゆるめた野本でしたが、「殺さないなら、明日にでも病院に行って院長に不倫のことを話し、2人とも病院を辞めさせてやる」と言う妻に、「もう殺すしかない」と思った野本は、力まかせにロープで首を絞め、ついに彼女を殺害してしまったのです。
 
*二人のやり取りについては、取り調べでの野本の供述にもとづいているので、「妻が挑発的な言動をした」と彼が言うのが事実かどうかには疑問もあります。
 
午前6時ごろの凶行でした。
 
その後、午前8時ごろに優作ちゃん、午前9時ごろに愛美ちゃんと、2人の子どもを、ためらいながらでしょうか、時間をおいて次々に絞殺したのです。
 
11月12日に海中で発見された優作ちゃんの変わり果てた写真を、身元確認のためとして見せられ泣き崩れた野本ですが、殺害への関与は一貫して否定しました。
 
しかし、ロープを強く引っ張った時についたと思われる手の傷(本人はネコに引っかかれたと弁明)や、Nシステム(道路を通行する車のナンバーを自動的に記録して手配車両と照合するシステム)に10月31日深夜、横浜方面に向かう野本の車が記録されていたことが決め手となり、ついに11月25日になって犯行を自供したのはすでに述べたとおりです。
 

FOCUS 1994年12月7日号


殺人と死体遺棄の容疑で横浜地裁に起訴され、1995(平成7)年3月6日の初公判で起訴事実を認めた野本岩男に対し検察は、「いたいけな幼児を虫けら同然に殺害し、あまりにも非人間的で戦慄(せんりつ)を禁じ得ない」「家族を皆殺しにした極めて凶悪にして重大な犯行で、極刑をもって臨むしかない」と死刑を求刑しました。
 
毎日新聞(1995年11月20日夕刊)
 
野本が起訴事実をおおむね認めていたことから、裁判の審理は情状面が中心になり、弁護側は、事件は計画的なものではなく衝動的に起きたことであり、また夫婦の問題については野本だけでなく映子さんにも責任があったと情状酌量を求めました。
 
横浜地裁の松浦繁裁判長は1996(平成8)年2月22日の判決公判で、野本に無期懲役の判決を下しました。
 
毎日新聞(1996年2月22日夕刊)
 
松浦裁判長は、「医師として生命の貴重さを学び、生命保持を使命と心得ていたはずなのに、妻を殺害し、父親として庇護すべき2人の子供も殺害した。(中略)殺された妻の無念さは計り知れず、子供は親の身勝手さの犠牲になり、遺族の嘆きと怒りも大きい。被告の責任は極めて重く、極刑も考慮される」と指摘しながらも、
①子供の殺害は、子供たちの将来を不憫に思った結果
②計画的犯行ではなく、衝動的・偶発的なもの
③夫婦げんかの繰り返しは被告のみの責任とはいえない
④殺害方法も残酷とはいえない
⑤被告の人格に、犯罪を繰り返すような強い反社会性はない
⑥自供後は、深く反省悔悟している
といった点をあげて、「いまだ極刑をもって臨むには隔たりがある」と結論づけ、死刑ではなく無期懲役を言い渡したのです。
 
毎日新聞(1996年2月22日夕刊)
 
この判決に対して、映子さんの母親の堀崎愛子さんは、「罰はあまりにも軽い」「判決は母親として納得できない」と無念さをあらわにしました。
 
判決を不服として検察と弁護側双方が控訴したため、東京高裁で審理が行われ、映子さんと野本それぞれの母親も証言台に立ったそうです。
 
1997(平成9)年1月31日の控訴審判決で佐藤文哉裁判長は、両方の控訴を棄却し、一審の無期懲役判決を支持しました。
そこには、事件の根底にある夫婦関係のもつれは被告のみの責任に帰すことはできないという、一審と同じ「夫婦の問題は双方に責任」という判断がありました。
 
 
この高裁判決に対してどちらも最高裁への上告を断念したことから、野本岩男の無期懲役刑が確定しました。
 
なお、厚生省(当時)の医道審議会は、翌1998(平成10)年4月20日の会合で、野本の医師免許取り消しを決定し、5月4日に発効しています。
 
野本が今どこの刑務所に収監されているかは公表されていませんが、犯行時29歳だった彼も、来年2025年で60歳の還暦を迎え、人生の半分以上を刑務所で暮らすことになります。
 
仮釈放が考慮される目安と言われる30年(野本の場合は2027年で30年)を超えても、死刑を求刑されての無期懲役囚が仮釈放される可能性は非常に小さいと言われていますので、彼は事実上の終身刑として獄中で生涯を終えることになるのではないでしょうか。
 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

野本の量刑について、死刑を望む遺族の心情は理解できますし、判決の妥当性をめぐって双方の立場から議論があると思いますキョロキョロ
 
ただ小川としては、自分の身勝手で無責任な行動から、特段の落ち度があったわけではない映子さんと、ましてや何の罪もない幼い子ども2人の命までも奪った野本岩男に対しては、死刑によって「死んで楽になる」ことを許さず、自由な行動も、あれほど好き勝手した女性との関係も奪われた獄中で、一生をかけて自分の愚かで浅はかな行いがもたらした現実と向き合わせることが、彼の罪に見合った罰ではないかと思います。

 

なおこの事件については、Wikipediaその他で、3人の遺体を梱包した時のロープの結び方が、一体だけ「俵結び」という特殊な結び方であったことや、優作ちゃんの胃のなかに1時間ほどで消化されるはずのチョコレートが残っていたことが「謎」として指摘され、共犯の可能性や殺害時刻についていろいろな推測がなされているようです。

 

それらについては、独自な情報も推理も小川にはありませんので触れずにおき、気になった次の2点に関して思うことを書いてみます。

 

まず野本岩男についてです。

小川の疑問は、彼は何のために医者になったのかということです。

 

先に書いたように、横浜地裁の松浦裁判長は判決文で、野本は「医師として生命の貴重さを学び、生命保持を使命と心得ていたはず」と述べています。

 

建前としてはそうでしょうし、もちろんけがや病気で苦しむ人たちを救いたいという志から医師になった人もたくさんおられることは疑いありません。

 

しかし、小川のころそうでしたが、勉強が良くできる生徒の多くが当然のように医学部を志望する風潮がありました。

それは言うまでもなく、医師は社会的地位が高く、高額な収入が約束されているからです。

 

小中学校では常にトップの成績、進学校から一浪はしましたが筑波大学医学部に進んだ野本も、おそらく医師という職業について特に深く考えることもなくその道を選んだのでしょう。

 

けれどいくら勉強のできた野本といえども、初めての受験に失敗したように、難関大学の医学部に合格するためには、恋愛や遊びを犠牲にし一途に受験勉強に励まざるをえなかったのではないでしょうか。

 

もしもその禁欲的な努力が、医師の使命を志してのものではなく、それに付随する社会的威信や高収入に引かれてのものだったとすれば、医学生になりそして医師になった時に、手に入れた優越的立場を利用して、金儲け第一の医療に走ったり、身勝手な欲望のままに振る舞う人が出てきても不思議ではありません。

 

野本の場合の「身勝手な振る舞い」は、女性を遊びの道具としか考えず、性的欲求のおもむくままに相手を変えながら弄(もてあそ)ぶところにありました。

 

避妊もせずに性関係を持ち、妊娠すれば平気で中絶させることを繰り返すところに、相手の女性への配慮や尊重の気持ちなど二の次にした、野本という男の独りよがりがよく表れています。

*避妊しなかったことに関しては、無理強いされたのでなければ、妊娠のリスクを承知で男の身勝手を受容した映子さんにも責任の一端はあるでしょう

 

ですから、患者さんに対しは親切丁寧で評判が良かった野本の「表の顔」も、医師として「生命保持を使命と心得ていた」からというより、医師の立場や好印象を利用して遊ぶための方便に過ぎなかったのではないかとさえ思ってしまうのです。

 

とはいえ小川は、野本が根っからの極悪人だと思っているわけではありません。

 

「小柄でかわいい」つまり「おとなしく自分の思い通りにできる」と見て映子さんに近づいたのだろう野本には意外だったでしょうが、彼女は負けん気が強く行動力のある女性だったようです。

 

野本との最初の妊娠では中絶に応じた映子さんですが、2度目は野本の言いなりになりませんでした。

1人でも産んで育てようとする強い意志を示す彼女を前に、野本の方が心が揺れて婚姻届を出しすぐに後悔したり、女性関係を責められるとしどろもどろになってご機嫌取りをするなどしました。

 

そして最後も、「院長に言う」と映子さんに言われてカッとなり首を絞めてしまうのですが、追い詰められるとキレて暴力に訴えることしかできない野本は、小心で思慮の浅い子どもっぽい男だったのだろうと思います。

 

女性をまるで「玩具(おもちゃ)」のように考えたのも、傲慢な思い上がりというより、野本の人間としての未熟さ(幼児性)の表れだったのではないでしょうか。

 

小さいころから「神童」と呼ばれ、人間性を磨く経験をするゆとりもないまま、両親の期待を一身にうけて勉強に励んだ「受験秀才」の弱さと脆(もろ)さ、愚かさと悲哀を、小川は野本に見る思いがします。

 

送検される野本岩男

(「FOCUS」)

 

次に、映子さんについてです。

 

映子さん

 

裁判所が、死刑を回避する判決を野本に下した理由の一つに、先に述べたように、夫婦の不和には双方に原因と責任があり、「犯行の背景及び誘因には、被告人の責めにのみ帰することができない面があり、斟酌(しんしゃく)すべき事情がある」(地裁判決文)という判断がありました。

 

それでは、映子さんのどこに問題があったというのでしょうか。

 

判決文は次のように言っています。

 

「2人の間においては、当初から精神的繋がりが希薄であり、人格を尊重し合い、互いの考え方・価値観・結婚観等を理解し、協力し合おうとの態度がほとんどなく、互いに自己の考え方、観念等のみにとらわれて勝手に行動しあって夫婦生活の体を成しておらず、かえって不満を述べ相手の欠点を責めるのに急で隔たりを大きくするのみで、夫婦不和を拡大させ喧嘩を繰り返して憎しみをかき立て合い増大させていったのであり、このように夫婦不和と夫婦喧嘩の繰り返しについては、2人の互いの行動が原因となり影響し合っており、ひとり被告人の責任とはいえないのである。」太字での強調は小川)

 

上の文は、「被告人の浮気という夫として無責任な行動がその契機であり理由であったことはいうまでもないが」という前置きに続くものですが、「互いの行動が原因」という結論に持っていっていることから考えると、この「いうまでもないが」は「夫の無責任な行動はあったのだけれども」の意味ではないかと思えてなりません。

 

本当にこの事件の原因は「どっちもどっち」だったのでしょうかキョロキョロ

 

たとえば、「当初から精神的繋がりが希薄」と言いますが、くり返し述べたように、当初から野本にとって女性との関係は「遊び」であって、映子さんも「その1人」に過ぎなかったのです。

ですから野本は、一時の気持ちから映子さんとの婚姻届を出したもののすぐに後悔し、新婚早々新たな女性に手を出します。

 

一方、詳しい事情は分かりませんが、前夫との2人の息子を手放した後悔もあってでしょうか、今度は自分一人でも育てると決意していた映子さんは、野本からの思いがけない結婚の申し出に歓喜しました。

 

さて、「精神的繋がりが希薄」だったのはどちらなのでしょう。

 

また、「不満を述べ相手の欠点を責めるのに急」と言いますが、それも「どっちもどっち」だったのでしょうか。

 

空約束をくり返すだけでいっこうに「浮気」をやめようとしない野本に対して、彼女が厳しい口調で責め、家族旅行をしたり職場旅行でお土産を買ってくるなどの「ご機嫌取り」をされても執拗に疑う態度をとったことは事実でしょう。

 

しかしそれは、だから彼女の態度に問題があったと言われるべきことだったのでしょうかショボーン

 

最初の結婚がうまくいかなかった映子さんとしては、新たに生まれた子どもと一緒に今度こそは野本と幸せな家庭を築きたいという強い期待があったと思います。

それだけに、夫がくり返す裏切りは、彼女にとって大きな失望であり苦悩であり不安であったでしょう。

 

そういう妻の苦しみに真摯に向き合い、深く傷ついた夫婦間の信頼を回復しようとせず、その場その場の言い逃れが「通用しなくなると、かえって映子への不満をあげつらね、映子を逆に責めるようになった」(地裁判決文)野本にこそ、「相手の欠点を責めるのに急」という指摘が当てはまると小川は思うのです。

 

もちろん、小川は映子さんが何の欠点もない女性だったと言うのではありませんショボーン

 

この事件では、被害者であるはずの映子さんに対して、テレビのワイドショーを中心にマスコミがよってたかって映子さんの私生活を暴き、バッシングしました。

 

マスコミが描いた映子さんのイメージは、ブランド好きで浪費癖やギャンブル癖があり、ゴールデンレトリバーを2頭も飼い自分の車(マークⅡ)を乗り回す女、そのために借金まみれになって、子どもの面倒もろくに見ずに夜の仕事をしていた女……というものでした。

 

映子さんが、豊かな生活に憧れ、上昇志向を持った女性であったことは本当だと思います。

彼女は、愛美ちゃんをつくば市の有名私立幼稚園に入れようとして、毎週東京自由ヶ丘の幼児教室に通わせていたそうです。

有名幼稚園や小学校への「お受験」は、エリート志向の強い親の間で1990年代に入ってから顕著になった社会風潮でした。

 

おそらく映子さんにとって「お受験」は、広い庭のある一戸建て住宅、夫婦それぞれの車、ブランド品、ペットの大型犬などと並んで、彼女の「豊かさ」志向を満足させるための「アイテム」だったのでしょう。

 

しかし、野本の月収は手取りで100万円を超えていましたが、家計は「火の車」だったようです。

 

毎日新聞(1994年11月24日)

 

先に述べたように、野本の給与の過半は、彼の女性との付き合いや競馬(これには映子さんも加わっていたようです)、投資用マンションのローン返済などに使われ、映子さんには月に40万円(「FOCUS」では30万円)が渡されていました。

 

12万円の家賃支払いも含めての月3、40万円ではとても「豊かな暮らし」を維持できないことは明らかで、映子さんはもうこれ以上は使えないという限度までカードローンを使っていたようです。

 

「浪費」を「美徳」と煽ったバブル時代の感覚も残っていたのでしょうか、野本夫妻の金銭感覚・経済観念は小川にはとても理解できないところです。

 

こうした「ローン地獄」の中でも、野本は女性に20万円は下らない高級時計をプレゼントしていたと言われますが、映子さんは医療検査会社に時給千円で働きに出、さらにマスコミが事件後に「暴露」したように時給3100円のランジェリーパブでアルバイトを始めます。

 

家計の必要が映子さんのアルバイトの理由だったことはもちろんですが、それだけでなく、けんかになると野本が彼女に「稼いでいないくせにとの言葉を吐いた」(地裁判決文)ことへの反発があったそうです。

 

夫婦げんかで旗色が悪くなると、「誰のおかげで生活できると思ってるんだ」「オレがオマエを食べさせてやってるんだぞ」とキレて妻を黙らせようとする「昭和あるある」の夫そのままの振る舞いを、野本は映子さんにしていたのです。

 

それに反発した映子さんが働きに出ると、今度は「女性の役割」である家事育児をおろそかにしていると非難する野本——しかし、おそらく男性が多かったであろう当時のマスコミの記者たちの中には、この点では野本に同情する人が多く、それが被害者である映子さんへのマスコミによる「セカンドレイプ(性暴力の被害者に、本人にも落ち度があったと非難しさらに傷つける行為)」のようなバッシングの背景にあったのではないかと思う小川ですショボーン

 

参照資料

・新聞の関連記事

・「FOCUS」1994年11月23日号

・同、1994年12月7日号

・横浜地裁判決 平成6年(わ)2381号

・小川一「平成の事件ジャーナリズム史(4)つくば母子殺人事件、東電女性社員殺人事件 自省迫られたメディア」毎日新聞、2019年2月10日

 

 

読んでくださり、ありがとうございましたニコニコ