夫による

千葉大学女医殺人事件

1983(昭和58)年

 

朝日新聞(1983年1月7日夕刊)

 

【事件の概要】

1983(昭和58)年1月7日の早朝、新聞配達員が路上にうつ伏せに倒れている女性を発見し、警察に通報しました。

女性はすでに死亡しており、残されていた免許証から、現場から150m離れたところに住む千葉大学医学部病理学教室研究員の椎名敦子さん(当時25歳)と分かりました。

 

椎名敦子さん

 

敦子さんの死因は電気コードのようなものによる絞殺で、着衣に乱れはなく、また抵抗した跡がないことから、顔見知りの犯行の可能性と共に、財布のお金が抜き取られていたため強盗殺人も視野に入れて警察は捜査を始めました。

 

朝日新聞(1983年1月8日)

 

しかしその後、実は敦子さんの遺体の第一発見者は夫の藤田正(同25歳、この時点では椎名姓でしたが、このブログでは藤田正と記述します)であると判明しました。

藤田は、気が動転したのと犯人と疑われることを恐れて、誰かが通報するだろうと自宅に帰った、遺体を発見した時に不審なアベック(男女二人連れ)が逃げるのを見たと言いましたが、その不自然さから警察は早い段階で彼に疑いの目を向けました。

 

藤田(椎名)正

 

藤田の証言によると、敦子さんは1月7日の午前3時ごろに大学の研究室に行くと言って家を出たので、途中まで送って家に戻ったとのことでした。

 

朝日新聞(1983年1月11日)

 

家が建ち様子が変わった現場付近の現在

 

しかし大学関係者によると、研究生が深夜に研究室に来ることなどあり得ないということでしたし、何より藤田の手のひらにあった赤い条痕(すじ状の皮下出血)が、敦子さんの首を絞めた時に電気コードを強く握った跡と合致することが決定的な根拠となって、容疑者は藤田に絞られました。

 

朝日新聞(1983年1月11日)

 

1月11日に最初の事情聴取を受けた藤田はそれを感じたのか、16日の朝に自宅で採血用の針を腕に刺して血を抜き自殺未遂を図ります。しかしその時は、実家から来ていた藤田の母親がすぐに発見したため、命に別状はありませんでした。

 

それを伝えた次の「朝日新聞」紙面には、高校の同級生だった朝日の記者が自殺未遂の前夜に藤田におこなった単独インタビューが、スクープ記事として掲載されています。

 

朝日新聞(1983年1月17日)

 

藤田が自殺未遂で入院していたために1月21日の敦子さんの本葬は、父親の椎名岩松さんが喪主となって銚子市の妙福寺でとりおこなわれました。

 

翌22日、警察は藤田正を椎名敦子さん殺害容疑で逮捕しました。

 

朝日新聞(1983年1月23日)

 

【藤田正とはどういう人物だったのか】

藤田正は、1957(昭和32)年9月10日、秋田市川尻町に藤田正義さんの次男として生まれました。藤田には父と前妻との間にできた娘(異母姉)と、再婚後に生まれた兄がいます。

 

「おぼっちゃま」育ち

宮城県で教員をしていた父の正義さんは、前妻と離婚後に秋田で始めた不動産業が、1964年の東京オリンピック後の高度経済成長の波に乗って急成長し、経営する「秋田不動産」は県下で一、二を争う不動産会社にまでなります。

秋田駅近くに豪邸を構え、立派な本社ビルも建てた父親のもとで、藤田は何不自由ない「おぼっちゃま」として育ったのです。

 

エリートコースを歩む

1964(昭和39)年、エリートコースのスタートラインとされる秋田大学教育学部附属小学校に入学した藤田は、1970(昭和45)年に同附属中学校に進学します。勉強はよくできた藤田ですが、学校ではあまり目だない生徒だったようです。

1973(昭和48)年、藤田は進学校として有名な秋田高校の理数科に入学します。定員割れによる補欠入学ではありましたが、入学後の藤田は、中の上の成績をキープしていたそうです。

 

父の望みで医学部へ

当時は、成績の良い生徒は医学部を目指すというのが定番で、藤田の父も正が医者になって秋田で開業することを望んでおり、自宅豪邸の隣に開業のための土地を用意していたほどです。

藤田自身もそれを受け入れて医学部を志望しますが、開業医の場合、出身大学はあまり問題にならず、東大医学部を頂点とする序列・系列が明確な大学医学部の上位校に、浪人覚悟で挑戦する気のなかった藤田は、1973年に開学したばかりの新設校で低ランク(当時28あった医学部中、入試難易度21位)だった獨協医科大学に早々と入学を決めます。入学に当たっては、父親が千万単位の寄付をしたと言われます。

 

椎名敦子さんとの出会い

1976(昭和51)年4月、藤田と同期入学の新入生に、千葉県銚子市にあった整形外科を専門とする椎名外科医院の一人娘、椎名敦子さんがいました。

 

ネットに名が残る椎名外科医院

 

病院の大きさをしのばせる跡地

 

敦子さんは、ランク上の東京女子医科大学にも合格していましたが、医院を継ぐ婿養子を探すという親の意向もあって、あえて獨協医科大学に入学したのです。

 

敦子さんとの出会いは、藤田の高校のクラスメートのいとこ(同大の女子学生)の紹介によるものでした。

二人は1年生の夏ごろに交際を始めて秋には深い仲になり、3年生の中ごろから藤田が敦子さんのマンションに入り込む形で半同棲生活を送るようになります。

 

敦子さんにとっては彼が男性との初めてのつき合いでした。

しかし、藤田の方は高校時代から女性関係に積極的で、敦子さんとつき合うようになってからも、多数の女性と「浮気」を繰り返していたようです。

 

結婚と破局

それでも敦子さんは藤田との結婚を望み、実家の両親に紹介したところ、父親の椎名岩松さんも藤田を気に入り、婿養子の話が進みます。

 

1982年(昭和57)年4月25日、養子縁組の婚約がととのい、結納金として4千万円が椎名家から藤田家へ納められたほか、千葉市中央区葛城2丁目に当時8600万円をかけて敷地500㎡の豪邸が新築されました。

 

敦子さんの両親が用意した新居

 

1982年、大学を卒業した二人は、医師国家試験に無事合格します。

藤田は、義父の勧めで医学博士号を取得するため、千葉大学医学部の大学院を受験しますが合格しませんでした。

そこで同大学医学部の研修医になるのですが、地元出身者でもなく国立大学の千葉大からすればはるか格下の新設私大出身である藤田にとって、そこは決して居心地の良いところではなかったようです。

 

またちょうどそのころ、事業の失敗から実家の秋田不動産が銀行の管理下に置かれ、創業者である父親は経営権を失うという事態が起きます。

これまで何かにつけて父親の財力を後ろ盾に生きてきた藤田は、親からの金銭的援助がもはや望めず、居心地の悪い医局の中で、椎名外科医院の後を継ぐべき婿養子として義父の意向に沿った生活を送ることを余儀なくされたのです。

それは、子どものころから何の苦労もなくわがままに生きてきた藤田にとって、初めての大きな挫折体験であり、屈辱すら感じたかもしれません。

 

実家の没落で藤田は、「椎名正」という自分の立場にも卑下を感じたのか、新居の門には「藤田正」と旧姓で自分の大きな表札を、その下に「椎名敦子」の小さな表札を掲げていたそうです。

 

1982年10月10日、藤田と敦子さんは帝国ホテルで千葉大学長夫妻を媒酌人に、盛大な結婚式を挙行します。獨協医大理事長や地元医師会長などそうそうたるメンバーが招かれた中、敦子さんの友人も多数出席していましたが、藤田の友人の列席はわずか2人だったと言います。

 

ウェディングケーキに入刀する正と敦子さん

 

お金持ちの「おぼっちゃま」として育ち、エリートコースに身を置きながらもそれにつきものの熾烈な競争に巻き込まれぬ余裕を保ち、「一種の病気」と周囲が見ていた女遊びも続けながら、富裕な妻の実家の援助で贅沢に暮らすことを思い描いていたであろう藤田の心と行動に、狂いが生じ始めます。

 

「遊び」を超えた女性関係

結婚式の前後から藤田は、それまでの遊びの「浮気」とは違った行動をとるようになります。

 

まず、結婚式を約3ヶ月後に控えた1982年6月下旬、藤田は千葉市栄町のソープランドで出会った女性(当時21歳)を気に入り、彼女がやっていたスナックにも頻繁に通ったそうです。

しかし女性からすれば藤田はあくまでも「客」ですから、何かにつけてお金を使わせるようにしたので、研修医の給与など藤田が自由になる月20万円ではとても足らず、彼女とはあくまでも「愛人」どまりで、10月ごろに別れます。

 

次に、結婚式から2週間余りしか経たない10月27日、藤田は栄町に近い富士見町のパブで、フェイ・フロリスタという19歳のフィリピン人ダンサーと知り合い、自分は東大医学部卒の独身医師だと嘘をついて急接近します。

彼女への藤田の熱の入れようは、会ってひと月後に結婚を申し込んだほどでしたが、フェイさんは本気にしなかったようです。

 

フェイ・フロリスタさん

(『FOCUS』1983年5月27日号)

 

12月24日、彼女はプロダクションの指示で愛媛県今治市のキャバレーへと興行の場を移し、それを知った藤田はあわてて後を追って27日に今治に行きます。

敦子さんはその時、同僚たちとスキーツアーで長野に行って留守でした。

 

朝日新聞(1983年1月13日夕刊)

 

世間知らずの藤田は、お金を出すからフェイさんを千葉に戻してほしいと元のパブのマスターに電話をしてたしなめられるなど必死で、サラ金で借金をしてキャバレーで派手にお金を使ったり、結婚祝いにもらった200万円の金時計をフェイさんにプレゼントして気を引き、何度も結婚を口にしたようです。

藤田をお金持ちの独身医師だと思っていたフェイさんは、藤田の熱心さに根負けしたのか、12月30日に彼と初めて性関係を持った夜、結婚を承諾しました。

 

藤田は結局今治に12月27日から1月1日朝まで滞在したのですが、実は彼は12月20日から千葉大医学部附属病院整形外科での研修医の仕事を無断欠勤し、年末年始の当直のシフトもすっぽかしていました。経験を積ませてもらっている立場の研修医としては、致命的な失態です。

 

1983年1月1日の午後に銚子の妻の実家に帰った藤田を、それでも義父は暖かく迎え、借金があれば肩代わりするからとまで言ったようです。

それには義父自身が婿養子だったという事情もあったのでしょう。

しかし藤田はその時、フェイさんとの結婚の邪魔になる敦子さんをどう殺害するか考えていたのでした。

 

敦子さん殺害へ

1月5日、子どものころから工作が好きだった藤田は、自宅のキッチンでガス漏れをさせ、部屋の電球のガラスにヒビを入れておいて、帰宅した敦子さんが電気のスイッチを入れると引火爆発する仕掛けを作り、敦子さんを事故に見せかけて殺そうと企てました。

藤田の下手な細工はうまく働きませんでしたが、6日にも同じことを繰り返しては失敗に終わっています。

なお敦子さんはこの時、不審なガス漏れに気づいて不安を感じたようです。

 

そして迎えた1月6日の深夜、上の記事にあるように、敦子さんがその日の無断欠勤について藤田を問いただしたところ、どうせ死人に口なしだと思ったのか、フィリピン人女性フェイさんとの関係やガス爆発の工作までも藤田が口にしたため、驚いた敦子さんは7日の午前4時ごろという時間にもかかわらず、「実家に帰って両親にすべてを話し、善後策を相談する」と言って家を飛び出しました。

そうはさせないと藤田は、家にあった電気コードを持って敦子さんの後を追い、遺体発見現場で首にコードを巻きつけ絞殺したのです。

 

裁判と自殺

藤田は、逮捕された後も犯行を否認し続けます。

 

朝日新聞(1983年1月24日)

 

しかし警察は1983年1月24日、本人否認のまま藤田正を敦子さん殺害容疑で千葉地方検察庁に身柄送検しました。

 

朝日新聞(1983年1月24日夕刊)

 

検察官の取り調べでようやく敦子さん殺害の事実を認めた藤田ですが、裁判では7月22日の第6回公判から「嘱託殺人」だったとの新たな主張を展開します。

 

朝日新聞(1983年7月23日)

 

前年秋に性暴力被害に遭いその後も犯人から手紙で脅迫されていた敦子さんがそれを苦にして、その日も自分で電気コードを首に巻き死のうとしていたのを止めようとしたが、不憫のあまり気がついたら手を貸してしまっていたというのです。

それにしても、わざわざ遺体を着替えさせて自宅近くの路上に捨てに行くというのはどうにも考えにくいことですし、性暴力被害や脅迫の証拠を弁護側は法廷に提出できませんでした。

 

朝日新聞(1984年3月1日朝刊)

朝日新聞(1984年6月1日夕刊)

 

1984(昭和59)年6月1日、千葉地裁は判決公判で藤田の嘱託殺人説を退け、懲役13年(求刑は同15年)を言い渡しました。

 

藤田は「嘱託殺人」説を主張して東京高裁に控訴します。しかし、1987(昭和62)年12月10日に高裁は一審判決を支持して控訴を棄却しました。

 

朝日新聞(1987年12月11日)

 

藤田は最高裁に上告しますが、1990(平成2)年3月13日に上告が棄却されたことで藤田の懲役13年が確定しました。

 

先に触れたように、藤田は逮捕前にも自殺未遂をしていました。

その藤田は、第一審の公判が始まる前の1983年2月26日にも千葉拘置所内で、かけていたメガネのガラス片で首を切り2度目の自殺をはかりますが、この時も軽傷でした。

 

朝日新聞(1983年3月9日)

 

しかし、最高裁が上告を棄却して懲役刑が確定した後の1990年3月22日、藤田正は東京拘置所の独房内で、抜いた畳の糸で自分の首を絞めて3度目の自殺を図り、33年足らずの短い人生の幕を自ら閉じたのです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

 

いかにも世間知らずな「おぼっちゃま」の雰囲気を漂わせた藤田正ですが、彼の人生は、最初は実父が、次には義父がお金をつぎ込んでお膳立てしてくれた舞台の上に成り立っていたものだったでしょうびっくり

 

今でいうイケメンでお金があり勉強もそれなりに良くできた藤田は、自分で人生と格闘する苦労を知らずに、あるいは医学部受験の時のように苦労を避けて成長しました。人生は自分の思い通りになるという驕(おご)りとその居心地良さを楽しむことは、藤田にとってごく当たり前のことだったでしょう。

要するに、人生を本気で生きるという気構えがそもそも藤田にはなかった、と小川は思うのです凝視

 

それでも大学を卒業し医師免許を取得したころまで、すべてはうまく行くはずだったのです。

開業医の後継者難を背景にした妻の実家に丸抱えの生活も、初めは藤田にとって望むところだったでしょう。

 

朝日新聞(1983年1月23日)

 

ところが、自分の実家の会社が事実上倒産し、大学病院では同僚たちから格下扱いをされていると感じ、経済的に依存している妻の実家には頭が上らない——追い込まれた状況に不満をつのらせ、妻との仲がギクシャクしても、そうした困難を自分の力で打開するだけの気力も覚悟も藤田にはありませんでした。

 

朝日新聞(1993年1月23日)

 

藤田は、フィリピン人女性との「恋愛と結婚」という妄想に逃避します。

おそらく藤田にとって、風俗の女性や日本に出稼ぎに来ているフィリピン人女性は、自分より明らかに弱い立場で自分を脅かすことのない安心できる存在だったのでしょう。

 

もしそれが本気の恋愛だったなら、敦子さんと別れてでも恋人との新しい人生に賭けるという選択肢もありえたでしょうが、そういう気概は藤田にはありませんでした。

第一、お金があることをひけらかしてようやくフェイさんの気を引くことができたのですから、実家をあてにできなくなった以上、椎名外科医院の後継ぎという立場を捨ててサラリーマンの勤務医に甘んじるわけにはいきません。

 

藤田が考えたのは、敦子さんを事故死あるいは自殺に見せかけて殺害し、義父に信頼されているのを良いことに、悲劇の夫として婿養子の立場をキープするということだったのでしょう。

しかし、年末年始のあきらかに非常識な行動を見ても、藤田の振る舞いは彼の人生そのままに、状況任せの行き当たりばったりなものでしかありませんでした。

 

そして、思ったようにことが運ばないと分かると、彼は居直ったように自殺未遂を繰り返し、ついには自分の罪と向き合うこともなく、死へと逃避してしまったのです。

 

これまでいろいろな事件を見てくると、虐待や貧困といった過酷な環境に押しつぶされるようにして罪を犯してしまう人たちがいる一方で、せっかく恵まれた環境に育ちながら自分本位にしか物事を考えられず、他人を自分の欲望のための手段としか思わない人たちもいることが分かります。

 

この事件を起こした藤田正は後者の例ですが、前者の犯罪よりもどうしようもない救いのなさを感じるのは小川だけでしょうか……キョロキョロ

 

参照資料

「朝日新聞」関連紙面の他の資料
 

 

 

 

 

 

 『FOCUS』1983年5月27日号
 

ちょこっと「舞台裏」

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