見世物小屋と中村久子

大寅興行社の見世物小屋(2008年10月

(Wikipedia)

 

先にこのブログで、「トンちゃん誘拐事件」を取り上げました。

 

1948(昭和23)年7月に、「トンちゃん」という愛称の小学1年生・伊藤務(つとむ)くんが、友だちとプールに行った帰り、浅草観音堂(本堂)の見世物小屋脇の路地に「おしっこをしてくる」と言って走って行ったまま行方不明になった未解決事件です。

 

 

このブログにつけてくださったコメントの中に、「あくまでも私の憶測です」としながら、「見世物小屋に連れ込まれてしまったのではないかとふと思いました」という投稿がありました。

 

行方不明後すぐにトンちゃんのご両親らが、一帯をしらみつぶしに聞き込み探されましたので、その時に掛かっていた見世物小屋に連れ込まれた可能性はまずないと思います。

 

しかし、このコメントをきっかけに、「見世物小屋」という小川にとって未知の世界に興味を持ちましたので、少し調べてみた結果をまとめてご紹介しようと思います。

 

見世物小屋というのは、寺社の祭礼や縁日に合わせ、境内や参道付近に仮設の小屋を掛け、そこで珍奇なものやおどろおどろしい(いかにも恐ろしく異様な)もの、奇術や曲芸などを見せる期間限定の興行で、お化け屋敷もその中に入ります。

 

靖国神社「みたままつり」(2013)

(「千代田遺産」より)

 

戦後は1950年代から60年代にかけて盛んだった見世物小屋も、1970年代の半ば(昭和50年代)以降はしだいに衰退していき、現在では単独で見世物小屋を興行できるのは、今は亡き大野寅次郎さんが始めた大寅(おおとら)興行社だけになっているそうです。

 

大寅興行と劇団「ゴキブリコンビナート」のコラボ

虫(ミールワーム)を食べる「やもり女」

小川の祖父は1960年代の後半に兵庫県の西宮神社(戎神社、えべっさん)の境内で見かけたことがあるそうですが、平成生まれの小川自身は見たことがありません。

 

ちなみに、yuichanさんという方が、ご自身のブログに1990年代初めごろに西宮神社で見た見世物小屋(当時まだあった安田興行社の小屋だと思われます)の写真をあげておられます。

 

 

yuichanさんのブログ「たからもの日記」より

 

見世物小屋は、日常の世界にはない珍しいものや奇怪なものを見たいという人びとの好奇心をかき立て、それなりの仕掛けや技で応えることで成り立つ商売ですから、意図的にいかがわしい(怪しげで疑わしい)雰囲気をまとわせているものだと思います。

 

見世物小屋のインチキな出し物の例として、「大イタチ」を見せると言われて中に入ると、「きなのようなものが赤いペンキで描かれている」だけだったという話がよくあげられますが、そこまで露骨なインチキは実際にはほとんどなかったようです。

 

しかし、見世物小屋のいかがわしい雰囲気もあってでしょうか、Wikipediaの「見世物小屋」の説明に、興行場所を浅草公園六区に限った警察令「観物場取締規則」(1891・明治24年)の記述の後に、「時には、誘拐された子供が人身売買で、足の筋を切られた被虐的な道化役や、見世物として覗き穴の娼婦にするために売り飛ばされてきた例もあったという」と書かれています。

 

小川の祖父も、子どものころに暗くなるまで遊んで帰ると、「子取りにとられてサーカスに売られるよ!」と親に叱られたそうですから(サーカスも見世物小屋の出し物の一つでした)、誘拐した子どもを使うといううわさは昔からあったのでしょうが、そうしたことが実際にいつごろどれほどあったのか、Wikipediaには実例や情報の出典について何も書かれていません。

 

ただ、後で触れるように、障害児を興行師が親から買って芸を仕込んだり、特別な技芸を持つ障害者を年季奉公(期間を決めて雇われ働くこと)させて、興行で見世物にしたという話は明治以降も当事者の話としていくつもありますし、子どもや若い(10代)女性の「神隠し」が珍しくなかった江戸時代には、言われるような誘拐と興行の世界への人身売買があったのかもしれません。

 

話が前後しますが、ここで見世物小屋の歴史について簡単に振り返っておきましょう。

 

見世物小屋のルーツは、奈良時代に中国大陸から伝わった娯楽的芸能(散楽、雑戯)で、現在の中国でその流れを汲むものが、今ではサーカス的な見世物が中心になっていますが、「雑技」と呼ばれるものです。

 

「上海雑技」の芸

 

当初は「勧進」(かんじん:寺社や仏像の造立・修理のための寄付を集めること)のために行われていた見世物が、民衆の娯楽としての見世物小屋になったのは江戸時代になってからだそうです。

 

その過程で、室町時代には「猿楽(能)」が見世物から独立した芸能になり、江戸時代初期には「歌舞伎」もそうなります。

 

 

能と歌舞伎

 

「見世物」について、いまだにこれを超える包括的な研究はないとされる古典が、朝倉無聲(1877-1927)の『見世物研究』です。

 

朝倉は本の冒頭で、次のように見世物を3つに分類しています(新字新かなにしていますので、原文は下の画像をご覧ください)。

 

「見世物はいわゆる際物(きわもの:一時的に人びとの興味を引くようなもの)だけに、新陳代謝もまた激甚であったものの、その展開した跡を観ると、自ずから3種類に分かれていたようである。即ち第一に手品、軽業(かるわざ)、曲独楽(曲ゴマ)、力曲持(きょくもち:いろいろな物や人を手・足・肩・腹などで持ち上げあやつる曲芸)等の技術類、第二に奇人、珍禽獣、異虫魚、奇草木石等の天然奇物類、第三に練物や張抜き(張り子)の人形から、籠貝紙菊等の細工物類であった。」(( )内は小川)

 

 

このように、今では独立した催しとして行われている「菊人形」も、元は見世物小屋の「細工物」に分類される出し物だったことがわかります。

 

巣鴨 植木屋亀蔵の菊細工

「人物 丈三尺(約90㎝)」と

書かれている

 

朝倉の本は、見世物の3分類に従って「技術篇」「天然奇物篇」「細工篇」の3篇から成っています。そこで紹介されているのは江戸時代の見世物ですが、それぞれどのようなものがあったのか、見世物小屋の世界を少しご覧いただきましょう。

 

「技術篇」では、下に絵をあげた「弄丸」(ろうがん:物を空中に投げては受けとめる芸)や樽回し、女怪力など、手品や曲芸をはじめとする多彩な見世物が紹介されています。

 

現在の「ジャグリング」

 

曲持の「樽回し」

 

「怪力女」

 

また、江戸時代中期には女性と盲人の相撲も見世物として評判を呼びましたが、卑猥な仕草を見せて寺社奉行に興行を禁止されたこともありました。

 

 

「天然奇物篇」では、当時は珍獣であったアザラシなどの生き物や、動物を使った芸があげられています。

 

 

「猫と鼠の芸」

 

中でも、1821(文政4)年に長崎に渡来して大阪(難波新地)・江戸(両国)をはじめ、全国を巡業したラクダは大変な評判で、見世物は動物園のルーツの一つでもあったようです。

 

 

この「天然奇物」には「奇人」とされた人間もあり、「おなら」を自在に吹き鳴らすこっけいな芸人やヘビ使いなどのほか、病者や障害者も多くありました。

 

 

 

 

上の絵の身長2mを超す「大女房」と40㎝足らずの「一寸法師(侏儒:しゅじゅ)」は、今で言う「巨人症」と「小人症」の人でしょうし、皮膚が鱗(うろこ)状になって剥がれる「魚鱗癬(ぎょりんせん)」という皮膚病の人や「多毛症」の人などもありました。

 

また、おそらく知的障害者だったのでしょうが、江戸前期にわけのわからない言動をする「可坊(べらぼう)」という名の見世物芸人がおり、その名前は後に「とんでもない」「度はずれ」の意味で使われるようになりました。

ちなみに、江戸っ子のののしり言葉である「べらんめぇ」は、「べらぼうめ」のくずれた言い方です。

 

「べら坊」

 

さらに、手や足のない障害者がいろいろな技をして見せ、時には曲芸まで披露する見世物も人気だったようです。

 

足で筆をもち字を書く腕のない人

 

両膝下がない「達磨(だるま)男」の曲芸

 

「細工篇」では、先にあげた菊人形(菊細工)が有名ですが、そのほかにも貝やガラス(ビードロ、ギヤマン)、籠編みや瀬戸物(陶器)などいろいろな材料で作られた細工物があげられ、「人魚のミイラ」など加工された剥製の類もありました。

また、人形の中にはゼンマイ仕掛けで動いたり音を出すものもあったそうです。

 

籠細工の関羽

 

それぞれのジャンルの見世物がどれくらいの割合を占めいていたのか、川添裕さんは見世物絵の数をもとに次のようなデータをあげています。

 

川添裕『江戸の見世物』より

 

これで見ると、時代によってかなり増減(流行り廃り)がありますが、見世物の主流は朝倉分類でいう「細工物類」と「技術類」です。

「天然奇物類」では動物が幕末期に多くなり、人間は明治以降に増える傾向にありますが、「人間(奇人)」そのものを見世物にしたのは全体としては5%とごく一部にとどまっています。

 

しかし先にあげた「達磨男」のように、「奇人+曲芸・演芸」という複合的な見世物に従事していた人は、特に明治以降は5%という数字の印象よりも多かったのではないかと推測します。

 

というのは明治時代になると、技術工芸品や文化財の分野では1872(明治5)年に東京国立博物館の元になった「湯島聖堂博覧会」が開催されます。

 

湯島聖堂博覧会(Wikipedia)

 

また珍しい生き物の分野では1882(明治15)年に上野動物園が開園して、そこには後に水族館となる「観魚室(うをのぞき)」もありました。

 

明治時代の上野動物園

(藝大アートプラザ)

 

さらに曲芸で言えば、1872(明治5)年にフランスの曲馬団が、1886(明治19)年にはイタリアのチャリネ一座が来日して大評判となり、1899(明治32)年に日本で最初のサーカス「日本チャリネ一座」ができるなど、それまで見世物小屋の主な出し物だったものが次々と独立していったからです。

 

歌川正信「世界第一チャリネ大曲馬」

 

ここまでは、見世物小屋とはどういうものだったのか、江戸時代から明治にかけての概要を見てきました。

実に多彩な娯楽的展示物や技芸が庶民の楽しみに供せられていたことに驚かされますが、それと共に小川にとってとてもショックだったのは、病者や障害者が「奇人」として文字どおり「見せ物」にされていたことです。

 

しかも明治以後になると、先ほど見たように、かつては主な見世物だった工芸細工や手品・曲芸、珍しい動植物や石がそれぞれ別の興行や展示施設として見世物小屋から独立していった結果、「奇人」「変人」(作りものも含めて)が見世物の中心になっていったようなのです。

 

そしてそこには、「異形の身体」を見せたり、芸をする障害者の姿がありました。

 

見世物小屋で芸を披露した障害者に、中村久子さんという女性がおられたことを、小川はこのブログを書いていて初めて知りました。

 

編み棒を口にくわえて
編み物をする中村久子さん
 
中村久子さんは、1897(明治30)年11月25日に飛騨高山で、畳職人の父・釜鳴栄太郎さんと母・あやさんの長女として生まれました。
 
元気に育っていた久子さんですが、2歳10ヶ月の時に「突発性脱疽(だっそ)」を発症します。
突発性脱疽は、今では「バージャー病」と呼ばれ難病に指定されている病気で、手足の末梢血管(ひじやひざから先の血管)が閉塞し血流が十分に届かなくなって、最悪の場合は手足の先が壊疽(えそ:組織が死んで黒くなること)するため、切断しなければなりません。
 
今日ではそこまで悪化させない治療法があるようですが、久子さんの時代(明治)の医学ではなすすべもなく、両手足のひじとひざから先を切断しなければなりませんでした。
 
それでも両親、特に父の栄太郎さんは久子さんを大切に育てました。
ところがさらなる不幸が久子さんを襲います。
6歳の時に、急性脳膜炎で父親が亡くなったのです(享年38歳)。
 
久子さんと弟の栄三さんを抱えて生活に窮した母親は、久子さんが7歳の時に、やはり畳職人で2人の子がある藤田という男性と再婚しました。
栄三さんの方は夫だった栄太郎の実家(畦畑家)に預けて、久子さんだけを連れての再婚でした。
 
久子さんが8歳の就学年齢になっても、今と違って障害者が学校に行くなどということは考えられない時代です。
彼女は、義父からひどい虐待こそ受けなかったものの、世間体が悪いからと2階の部屋に追いやられ、母娘ともども肩身の狭い思いで暮らすことになりました。
 
母のあやさんは、両手足のない娘を不憫に思いながらも、他人に頼らず自立生活ができるよう、当時女性のたしなみであった裁縫や料理を習得させようと厳しく接しました。
 
当時は着物(和服)が汚れると、いったん縫い目をほどき布に戻して洗い、糊をつけて干す「洗い張り」という作業が必要でした。
 
洗い張り(Wikipediaより)
 
母親は久子さんに、汚れた着物を与えて縫い目をほどくように言いつけたのです。
ほどくためには、留糸(糸が抜けないよう端を丸く結んだところ)を切らなければなりません。
しかし、噛み切ろうとすると、着物が唾液でベトベトになってしまいます。
 
 
ハサミで切ろうにも、握る手がない久子さんには日本の「握りバサミ」は非常に使いづらいものでした。
足でハサミを使えるようになっても十分に力が入らず、固い留糸は切れません。
試行錯誤しながら、ついに口にハサミをくわえて切ることができるようになったそうです。
 
  

ほどけるようになると、次は縫い物です。

久子さんは大変な苦心の末に、針に糸を通すことから口に針をくわえて布を縫うことまでできるようになります。

 

ここでは簡単に書きましたが、針をくわえて縫うと、たとえ上手に縫えても唾液で布がべとべとになってしまいます。

友だちに頼まれて人形の着物を縫ってあげたところ、その子の母親に汚いと言われ、その場で川に捨てられたこともあったようです。

 

つばで濡らさずに縫い物ができるようになるには13年かかったと久子さんは書いています。

 

 

料理も、脇の下に包丁を挟み、もう一本の腕で押さえてものを切ることができるようになりました。

 

 

食事も、茶碗に口をつけて食べていたのを「犬や猫と同じだ」と店の小僧に笑われた久子さんは、人間らしく食べたいと思って努力し、茶碗を持ち腕の包帯に刺したおはしで食べられるようになります。

 

 

こうして日常生活のたいていのことが自分でできるようになった久子さんですが、トイレにだけは1人で行くことができません。

 

そこで、母親が家計のために働きに出ると、母方の祖母・丸野ゆきさんが介助に来てくれましたが、この祖母から久子さんは文字の読み書きや、百人一首などを教えてもらったのです。

 

習った字を口でくわえたり腕と頬で挟んだ筆で書くことを覚えた久子さんは、自分で詠んだ歌を短冊に書いています。

 

腕と頬に挟んだ筆で短冊を書く

 

下の短冊には、次のように書かれています(1958・昭和33年以降の作)。

 

「手足なき 身にしあれども生かさるる いまのいのちは たふと(尊)かりけり」

 

 

話が先に進みすぎました。

 

久子さんが手足を切断して間もないころ、飛騨高山の山王祭(高山祭)に来ていた見世物小屋の興行師が彼女のことを聞きつけて、買い取りたいと何度も家にやってきたそうです。

まだ3つか4つの手足のない女の子を、同情を引く話で客を呼び込み、見世物にしようとしたのでしょう。

 

春の山王祭

 

貧乏人なら簡単に娘を売るだろうとでもいうような興行師の申し出を、父親は激怒して断ったそうです。

 

その見世物小屋に、19歳になった久子さんは自ら飛び込み、見世物芸人となるのです。

 

彼女が見世物小屋に入ったのは、「自分で働いて生き抜こう」と決意したからです。

そこには、「自分のことは自分でできるようになれ」という母親の教えがありましたが、それだけではなく、当時は久子さんの友人たちを含め富裕な家以外の娘たちはみんな10代後半にもなると働くのが当たり前だったからです。

 

飛騨高山から想像されるように、彼女たちの多くは製糸工場の女工として働きに出ました。

 

製糸工女の仕事は、古くは細井和喜蔵『女工哀史』(1925)、近くは山本茂美『あゝ野麦峠』(1968)に描かれたような過酷なものでしたが、腕の良い女工になるとかなりの収入になり、娘の働きで余裕のある暮しができるようになった家も多くあったのです。

 

四肢が欠損している久子さんには、1874(明治7)年に公布された「恤救(じゅっきゅう)規則」によって「廃疾者(はいしつしゃ:中度以上の障害者・不治の病者)」として国費で生活扶助(米代)を受ける道もありました。

 

しかし、「人権」や「国民の権利」という意識がまだ希薄な時代、国の「お情け」にすがって生きることを拒んだ久子さんは、先に見たように「自分で働いて生きよう」と決心したのです。

けれども、いくら器用でも重度障害の久子さんに働き口はありませんでした。

 

その時、父親の友人だった興行師の男性が、「2、3年見世物小屋で働いて小金をため、それを元手に小さな店でも出したらどうだ」と声をかけてくれたのです。

 

見世物に「堕ちる」ことをためらう自尊心と、生きていかなければならない現実との間で久子さんの心は揺れますが、他に道はないと決心して、1916(大正5)年11月16日、20歳になる直前に久子さんは見世物芸人になるべく故郷を旅立ったのです。

 

初めての名古屋の見世物小屋で久子さんは、「私には何より嫌いな名」だった「だるま娘」という名前をつけられて舞台に上がり、客の前で裁縫や編み物をしたり「下手な字」を書いて見せました。

 

観客の1人で、のちに有名な書道家になる男性が、彼女の書く字を見て筋が良いと思ったのか声をかけてくれ、久子さんは彼から習字を教わることができました。

 

興行師の小父さんが父の友人だったこともあり、久子さんは「太夫」(芸人)として大事に扱われ、同じような四肢欠損の女性芸人「玉子はん」など、人との出会いも彼女にとっては刺激的で楽しいものだったようです。

 

さらに、興行を手伝っていた男性と久子さんは恋仲になります。

そのころを振り返って久子さんは、自伝『こころの手足』で次のように書いています(以下、久子さんの言葉は同書からの引用)

 

    

見世物小屋という所は、とかく、世の中に受け入れられなかった私という生き物を人間に、否、「女」にしてくれた温床でした。

 

しかし、慈父のような小父さんの下での楽しい生活は長くは続きませんでした。

人は良くても興行師としての商才に欠けていた小父さんは興行が赤字経営になり、ついに他の興行師に一家(一座)を譲り渡さなければならなくなったのです。

 

新しい興行師は厳しい人で、久子さんはそれから見世物小屋の苦労を嫌というほど味わされることになるのです。

 

裁縫などそれ自体は「芸」とは言えないものをただ見せるだけではすまなくなった見世物芸人としての苦労や、興行師や芸人仲間との人間関係の苦労、そして結婚出産しての苦労などなど、もちろん苦労と喜びは背中合わせのようにありますから、ただ苦労だけでなかったことは言うまでもありませんが、22年に及ぶ久子さんの見世物生活の明暗をたどっていくことはブログの域をはるかに超えますので、関心を持たれた方はぜひ彼女の自伝をお読みください。

 

ちなみに久子さんは4回結婚して2人と死別、ダメ男の1人とは離婚し、その間に3人の娘をもうけますがうち1人と死別しています。

「中村」は、1934(昭和9)年に結婚した最後の夫である中村敏雄さんの姓です。

 

夫・敏雄さんに背負われた

晩年の久子さん

 

1937(昭和12)年、アメリカ人の作家で障害者の権利や女性の参政権、反戦平和などを訴えた政治活動家でもあるヘレン・ケラー女史が来日して全国各地で講演をし、東京では4月17日、日比谷公会堂で講演会がもたれました。

 

来日したヘレン・ケラー(右)

 

ヘレン・ケラーは、1歳半で髄膜炎にかかって聴力と視力を失い、さらに話すこともできなくなります(いわゆる「三重苦」)。

その後、7歳の時に教師のアン・サリヴァンと出会い、彼女から言葉や読み書きを教わったのは有名な話です。

 

久子さんは、仲介してくれる人があって、そのヘレン・ケラーに日比谷公会堂で会うことができたのです。

彼女は、自分で縫った着物を着せた日本人形を女史に贈り、ヘレン・ケラーも彼女から強い印象を受け、戦後に2度来日した時(1948年と1955年)にも2人は会っています。

 

贈り物の人形と久子さん

 

それが実現したのは、1934(昭和9)年に久子さんの見世物を観た伊藤あさ子さん(「無我愛」を提唱した僧で哲学者である伊藤証信の妻)が、彼女の人生や生き方に深く心を動かされて後援会を組織し、その世話により東京市内(当時は東京市)の学校や婦人会などで体験にもとづいた話をするようになっていた人脈があってのことです。

 

ヘレン・ケラーとの面会を機に、久子さんは各地から講演を頼まれるようになります。

見世物芸人としての生活を終わりにしたいと思うようになっていた久子さんは、1942(昭和17)年の興行を最後に見世物小屋を去り、それから1968(昭和43)年に亡くなる直前まで夫の敏雄さんや次女の中村富子さんに背負われ、全国で講演を続けました。

 

ある時期から浄土真宗の祖・親鸞の教えを導きの糸とした久子さんが、講演で話をする時に込めた思いは、次のような願いだったのでしょう。

 

   

はからおうとしても

何ひとつ自分の力で

はからうことをようしない私

はからえないままに 生かされている私

(中略)

そして きょうも無限のきわまりない

大宇宙に 四肢無き身が

いだかれて 生かされている——

ああこの歓喜 この幸福を

「魂」を持っておられる誰もが共に

見出してほしい

 

サムネイル

小川里菜の目

 

見世物小屋で客たちの好奇の目にさらされ「見せ物」にされる障害者(病者も含めて使います)——そこにとても残酷なものを感じた小川は、最初は見世物小屋自体に良い印象を持つことができませんでした。

せいぜい、社会福祉のない時代に障害者が生きていくためにやむを得なかったものとしか考えられなかったのです。

 

確かに、そうした面はあったと思います。

中村久子さんがもし、今のように障害者がバリアフリー化の進んだ街を電動車椅子で自由に移動したり、パソコンなどの機器を扱えたり、職業訓練の機会や十分に機能していないとはいえ障害者雇用制度があったりすれば、あえて見世物小屋に身を投じようとはしなかったでしょう。

 

見世物小屋に誘われた時、そこに「身を堕とす」ことを久子さん自身がためらったように、見世物の世界自体がいかがわしいものと世間では思われていたのです。

 

しかし今回、見世物小屋や石井久子さんの生涯を知ることで、小川の印象はかなり変わりました。

 

まず、先にも書いたように、江戸時代に開花した見世物小屋は、今で言う博物館や各種展覧会、動植物園や水族館、手品・演芸のショーやサーカス、遊園地の出し物などが集まる一大エンターテインメント(人を楽しませる娯楽)で、そこには人間たちの興味関心や遊び心の多様さと、それらをかき立て満たそうとする興行師や見世物芸人たちの鍛錬された技と創意工夫が集約されていたのです。

 

中にはインチキなものもあったようですが、当時の見世物の数々を絵で見ると、よくもこれだけのことができたと驚かされるばかりです。

 

それでは、小川がとても気になった障害者と見世物小屋についてはどうなのでしょうか。

見られる側(障害者)と見る側(客)の二側面から考えてみましょう。

 

まず、見られる側の障害者にとって見世物(小屋)とは何だったのか、小屋(興行主)によりまた本人の境遇によって大きな違いがあるでしょうから一概には言えないと思いますが、石井久子さんは次のように書いています。

 

    

振り返ってみますと、天幕生活、満22年、日本はおろか海を渡って朝鮮、台湾、満州の巡業——この間は私にとって決して短い時ではありませんでした。けれど人の世のあらゆるものを一杯に受けました。正邪のけじめの厳しいやくざ渡世の興行人、一般社会人よりももっと真紅のたぎる血潮に燃えているあの社会の人たちと暮らし、お金を山と積んでも決して求めることのできない、汲めどもつきない美しい人々の真心、暖かい親切にふれました。ああした社会があったお蔭で不具だとてひけ目もひがみも少なく人間として生きて来ることができました。そして、働きつつもわずかな勉強もできました。けれども人様に決しておすすめのできる社会ではありません。

 

苦労が多く人に勧められる社会ではないと言いながらも、しかし障害があるからと家に閉じ込められあるいは誰かの庇護のもとに囲われていたのでは決して得られなかっただろう体験や人と人との関わりを、彼女は貴重なことだったと振り返っています。

 

それからもう一つは、障害者だからといって特別に同情するわけでもおとしめるわけでもなく、芸人としての精進や芸の出来によって褒めもし叱りもする、「やくざ渡世の興行人」のある種平等な扱いのおかげで、「不具だとてひけ目もひがみも少なく人間として生きて来ることができました」と久子さんは言っているのだと小川は思いました。


さらに、上の文章では触れられていませんが、久子さんはただ普通の裁縫などをして見せるだけでは芸として限界があると悟り、リンゴの皮をむいたり、青年芸人と組んで「透視術」をしたり、大正琴を奏でて三味線と合奏するなど、新しくより高度な芸を習得しようと精進を続けました。

 

「そして少しでも会得したものを、観客の前に公開し捧げ得ることが、私には喜びであり幸福でもありました」と書いているように、芸という形で自分自身の能力や努力を表現し、それを他者(客)に認めてもらうことも、彼女にとって「人間として生きる」ための大きな力になったことでしょう。

 

もちろんそうしたことが可能だったのは、久子さんのように賢さや器用さや粘り強さといった資質に恵まれていたからこそでしょうから、障害者の誰もが見世物小屋で同じ経験ができるわけでないのは言うまでもありません。

 

それでは、見る側(客)にとってはどうだったのでしょう。

障害者の見世物は、障害者への差別を生み出しあるいは助長するものだったのでしょうか?
 
これについても一概に言うことは難しいですけれど、たとえば本人の意思に反して見世物になることを強要したり、障害を笑いものにするような芸をさせるのは当然問題でしょう。
 
それで言えば、障害だけでなく、「ハゲ」「デブ」「チビ」「ブス」など人の外見をあげつらい観客の優越心をくすぐるような「お笑い」芸が、つい最近まで堂々とやられていましたから、見世物小屋だけの問題ではありません。
 
また、「親の因果が子に報い」という口上(演者の紹介)が昔はよくあったそうですけれど、障害を悪い行いへの罰であるかのように言うことは、障害への誤った見方を生むものでしょう。
 
そもそも、客は珍奇なもの見たさから見世物小屋に入るわけですから、舞台の障害者を好奇の眼差しで見ることは確かです。
けれども、「好奇の眼差し」は必ずしも「差別の眼差し」ではありません。
 
たとえば、手足のない中村久子さんに、観客はまず好奇の眼差しを向けるでしょう。
しかし、彼女の巧みな芸を見るうちに、それが「驚嘆の眼差し」になることも珍しくなかったはずです。
つまり、障害=不自由=劣っているという差別的な先入観が、彼女の芸によって揺さぶられ驚くのです。
 
もちろん、それで障害者への見方が変わるというほど事は単純ではありませんし、障害者がみんな久子さんのようにできるわけでもありません。
驚異的な努力をして障害がもたらす不自由さを克服しなければ、障害者は「人並み」と認めてもらえないというようなことになれば、それは逆に障害者にとって新たな抑圧になってしまいます。
 
小川が言いたいのは、障害者が自らを見世物にすることは善か悪かと単純に決めつけるのではなく、具体的なケースに即してそれが持つ意味を考えなければならないということです。
 
これも、小川はこのブログを書く過程で知ったのですが、1991(平成3)年に旗揚げした「ドッグレッグス」という障害者プロレス団体があります。
 
二分脊椎症の鶴園誠選手(左)と
健常者の関口洋一郎選手(右)の熱戦
 
これに対して「障害者を見せ物にしている」と批判する人もあるようですが、代表の北島行徳さん(健常者)は次のように言っています。
 
「『見せ物』と批判する人は、障害者は『障害を隠したいはず』という思い込みがあると思います。うちの選手だけかもしれないが、障害者でも体を激しく動かしたい、人から見られたい、称賛を受けたいという思いがすごく強い。これこそ人間らしい。誰しもその気持ちはある。」
 
確かに、障害者の「障害」を見ることは失礼だと思い、つい意識して目をそらした覚えは、福祉関係の仕事をしている小川にもあります(「じろじろ見る」のが失礼なのは当然ですが)。
そこには、北島さんが言うように、「障害者は自分の障害ある身体を恥ずかしく思っており、見られたくないはず」という勝手な思い込みがあることを否定できません。
 
また、社会福祉の施策がなされるようになると、障害者は社会が守ってあげないといけない弱い存在だというイメージや、おとなしくてピュアな人たちという勝手な障害者像も生まれてきます。
 
ドッグレッグスが見せる、異形の身体を人目にさらし勝利を得ようと闘志をむき出しにする障害者の姿は、そうした偏見を激しく揺さぶるものでしょう。
 
今回は、いつものような事件・事故ではなく、江戸時代に盛んになった見世物小屋の世界と幼くして四肢欠損の障害を負い見世物芸人として生きた中村久子さん、そして障害者と見世物という問題について考えてきました。
 
小川にとっては知らないことばかりで、準備にすごく時間がかかった割にはまとまりのないブログになったのではないかと懸念しますが、お読みになって興味を持っていただければと願う小川ですにっこり
 
参照資料
・新聞の関連記事
・朝倉無聲『見世物研究』春陽堂、1928年
・朝倉無声『見世物研究 姉妹編』川添裕編、平凡社、1992年
・川添裕『江戸の見世物』岩波新書、2000年
・鵜飼正樹・北村皆雄・上島敏昭編著『見世物小屋の文化誌』新宿書房、1999年
・別冊太陽『見世物はおもしろい』平凡社、2003年
・「日本の見世物小屋 非日常的な曲芸、天然奇物、細工を展示する仮設小屋」SUBCULTUREAT、2020年10月6日
・蹉蛇庵主人「見世物興行年表」
・中村久子『こころの手足』春秋社、1971年
・「障害者プロレス、走り続け25年 健常者とも試合「こんな世界が…」」withnews、2015年10月24日

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