今回もリクエスト企画ですニコニコ

トンちゃん誘拐事件

1948年

伊藤 務くん

(愛称「トンちゃん」)

 

1948(昭和23)年7月11日の日曜日、東京都台東区神吉町(現在の東上野4・5丁目)14の新興ボクシング倶楽部会長・伊藤祐治さん(当時48歳)とアキさん(同41歳)の四男で、台東区立下谷(したや)桜岡小学校(のちに区立下谷小学校と改称し、1990年に統合により閉校)1年の伊藤務くん(愛称「トンちゃん」)が、同級生の鈴木敏行くんと隅田プールに行くと言って家を出ましたが、鈴木くんだけがひとりで帰って来ました。

 

神吉町の区域 14が伊藤さん宅

(左に上野駅、右方向が浅草)

 

事情を聞くと、帰りにトンちゃんが「おしっこがしたい」と言って浅草観音堂の見世物小屋脇の路地に駆けて行ったまま戻らなかったと言うのです。

 

戦後まもなくの浅草

 

遅いのを心配した鈴木くんが見に行くと、そこに「色メガネ(サングラス)」をかけた背の高い男がいてジロッとにらまれ、怖くなった鈴木くんは男から目をそらして帰って来たと泣きながら話しました。

 

伊藤さん夫妻はすぐに浅草に行って周辺を必死に探し回りましたが、トンちゃんの姿はもうどこにも見当たりませんでした。

 

ガード下を尋ね歩く母親のアキさん

 

たまたま同じ日に浅草で、ボクシング関係者である名取芳夫さんの長女・三枝子ちゃん(同4歳)も行方が分からなくなりました。

幸い三枝子ちゃんは3時間後に無事見つかりましたが、どこでどうしていたかは分からず、一時はボクシング界がらみの事件かと噂されたりもしたそうです。

 

トンちゃんの失踪から2週間が経過した7月25日の午後、伊藤さん宅にハガキの脅迫状が届きます。

7月25日の午後12時に、50万円を持って大阪駅東口階段(城東線=現在の大阪環状線の一部、の入口)に来いという内容で、7月21日大阪西郵便局の消印が押されていました。

ハガキの最後には、「OSAKAニテ T生」とあったそうです。

 

しかし、配達の時点で指定の時間を過ぎていました。

仕方なく伊藤さんは、長男の昭くん(中学1年生)を連れて28日夜に大阪に行きましたが、誘拐犯と接触することはもちろんできませんでした。

 

2通目の脅迫状が来たのは、7月31日でした。

今度は「8月1日の正午に、50万円を持って東京駅西口に来い」というもので、伊藤さんは指示に従い(ただし、私服刑事が尾行して)東京駅に行きましたが、誘拐犯は現れませんでした。

 

3通目が来たのは8月5日で、7月31日の大阪西郵便局の消印が押されており、「(八月)十日午後十二時例ノ所 大阪ニテ Tヨリ」との内容でした。

 

1948年8月5日に届いた3通目の脅迫ハガキ

 

この時も犯人は現れず、伊藤さんは大阪駅に近い曽根崎警察署裏の梅屋旅館で1週間待っていましたが、何の連絡もないので虚しく帰京しました。

 

ところが帰京してすぐに、梅屋旅館のトイレから「伊藤祐治氏ニ告グ」という落書きが見つかったという連絡がありました。

「Life is but an empty dream.(人生ははかない夢に過ぎない)」という英語と、「健在也」と日本語で書かれていたそうです。

 

真偽不明な情報が相次ぎます。

 

8月30日には、目黒区の渡辺勉さんという大工が、下のような文字が書かれた百円札を持って伊藤さん宅にやって来ました。

日本橋の三和銀行で3千円の小切手を換金した時に受け取った百円札(当時は千円札はなかった)の1枚に書かれていたというのです。

 

その札には鉛筆で、「私は悪人につかまっています 伊藤務 所 名古屋市西山町1ノ3829(2の2829番地とする記事もあり) 父の友達」と書かれていました。

 

 

警察の鑑識課がトンちゃんの筆跡に似ているとしたため、伊藤さんはすぐに名古屋の書かれた住所に行きますが、そもそもそういう番地は名古屋になく、伊藤さんは失意のうちに帰京せざるをえませんでした。

 

偽情報に振り回され憔悴する伊藤さん夫妻に、さらに詐欺師までもが接触してきて、情報を教えると言ってお金をせしめたりしました。

 

新たな情報が乏しくなる中、伊藤さん夫妻はわずかな手がかり・情報も逃さずに息子の行方を探し続けました。

 

伊藤さん夫妻

 

1951(昭和26)年、最高検察庁の福島検事の娘・みちよちゃんが誘拐される事件が起きました。

多くのお見舞いや励ましの手紙が福島検事の元に届いた中に、伊藤祐治さんからのものもありました。

 

読売新聞(1951年9月18日夕刊)

 

伊藤さんの手紙には、「お見舞い申し上げます。可愛いみちよちゃんが泣いているのではないかと思うと心の中が暗くなります。(中略)お願いです、みちよちゃんを探す時、私の子供も探すことにご協力ください」と書かれていました。

 

その後、みちよちゃんが無事に見つかった福島検事は、9月18日の朝、気がかりだった伊藤さんのもとを訪れました。

 

記事によると、伊藤さんは「こんどはおめでとうございます。しかし私はうらやましい……」と言ったきり、夫婦抱き合って泣きくずれ、福島さんも「わかります……」と一言いったきり目を伏せたそうです。

 

「誘拐された当時は探すのに一生懸命で、毎日毎日がすぎていったが、3年もたつともう寂しくて寂しくて、しかしあの子のことは一時も忘れられない」と言うアキさんに、「きっと探し出してみましょう」と約束した福島検事は、その足で警視庁を訪れて捜査続行を強力に要望し、また全国各地検にあてて捜査の尽力を打電したとのことです。

 

しかし有力な情報がないまま日ばかりが過ぎて行きましたが、トンちゃんが行方不明になってから8年後に大きな動きがありました。

 

1956(昭和31)年1月26日、便箋2枚にびっしりと書かれた脅迫状が伊藤さんの元に届いたのです。

封筒には1月24日付けの大阪中央郵便局の消印が押されていました。

 

内容は、1月31日に大阪の銀橋(桜宮橋の通称)の大阪造幣局前に30万円を持ってこいというものでした。

 
銀橋(桜宮橋)
向かって左に大阪造幣局
 
午後10時に伊藤さんが指定された場所に行くと、少し遅れて白マスクの小柄な男が近づいて来ました。
脅迫状を出した男だと確認できた伊藤さんが、ハンカチで汗を拭く合図をし、東京から同行して様子を伺っていた刑事2人が近づいて男を逮捕しました。
 
男を都島署に連行して取り調べたところ、大阪のメリヤス工場に就職してまもない三重県度会(わたらい)郡出身の三宅秀夫(同18歳)と判明しました。
 
三宅は探偵小説の愛好家で、「親心を試したかった」「愛情と犯罪というテーマで小説を書きたかった」などと自供しました。
 
読売新聞(1956年2月1日)
 
読売新聞(1956年2月2日)
 
護送される三宅秀夫
 
上の記事では、三宅(M少年)は、芸人・トニー谷さんの長男・正美くん(同6歳)の誘拐事件が掲載された『主婦と生活』1955年11月号を読み、そこでトンちゃんの事件を知って脅迫状を出したと書かれています。
 
トニー谷さん
 
そこで、少し脇道にそれますが、正美くんの事件についてもここで触れておくことにします。
 
トンちゃん事件の7年後、1955(昭和30)年7月15日に、下校途中の正美くん(入新井小学校1年)が黒い服の中年男に連れ去られました。
 
読売新聞(1955年7月18日)
 
そして翌7月16日に、身代金200万円を要求する脅迫状が届きます。
さらに7月21日の夜に犯人が、今すぐ渋谷駅ハチ公前にと電話してきました。
 
この当時は報道協定がないため、早くもマスコミ各社がトニー谷さんの自宅を取り囲んでいました。
そこでトニー谷さんは、自分はマスコミの目があって家を出られないので、代理の者を行かせると了解をとり、午後10時ごろ代理人を装った捜査員が受け渡し場所に行きました。
 
捜査員は、接触してきた男と話をしながら、本当に犯人なのか、また共犯がいないか慎重に探りを入れた上で逮捕に踏み切りました。
 
宮坂忠彦(同38歳)というその男は、長野県在住の雑誌編集者で、地元で雑誌の発行を計画したものの資金が足らず、リンドバーグの愛児誘拐事件*をヒントに身代金誘拐を企てたそうです。

朝日新聞(1932年3月3日)
 
*1932年、初の大西洋無着陸単独横断飛行を達成した飛行家チャールズ・リンドバーグの長男(1歳8ヶ月)が自宅から誘拐され、のちに遺体で発見された事件。
 
なお正美くんについて宮坂は、雑誌『平凡』で写真を見たとのことでした。
 
正美くんに危害を加えるつもりがなかった宮坂は、彼を長野県更級(さらしな)郡上山田町(現在は千曲(ちくま)市)の自宅に連れて行き、自分の子どもと一緒に遊ばせていました。
 
そこで捜査員が急行し、正美ちゃんを救出したのです。
警察より記者の方が先に駆けつけて撮ったと言われるのが、朝日新聞に載った下の写真です。
 
正美くん(右)と宮坂の長男
(宮坂の自宅で)
 
宮坂は、1957(昭和32)年6月4日に懲役3年の判決を受けますが、正美くんに危害を加えず丁重に扱ったことを喜んだトニー谷さんは、生活が困窮していた宮坂一家に現金と衣類を送ったそうです。
 
話をトンちゃん誘拐事件に戻します。
 
三宅秀夫が逮捕されてすぐ、彼の模倣犯が現れて伊藤さん夫妻はまた翻弄されます。
 
1956(昭和31)年2月6日の夜、三宅が出したのと同じような封書の脅迫状が届きました。
 
読売新聞(1956年2月7日)
 
脅迫状には、トンちゃんを育てて学校にも通わせているが、自分が病気になったので養育費として30万円を渡せば返すという趣旨のことが書かれ、2月7日の夜に大阪天王寺公園中央口に持って来いとありました。
 
先に述べたようにこのころは報道協定もなく、天王寺公園には大勢の変装したマスコミ関係者が犯人逮捕の瞬間をとらえようと集まったそうです。
 
ニセの模倣犯だと思われましたが、それでも伊藤さんは大阪に駆けつけました。

しかしこの時も脅迫状の主は現れませんでした。

 

またこのころ、トンちゃんと思われる少年がいるとの情報が相次いで寄せられたそうです。

やはり戦災孤児など、親とはぐれたり死別して出自のよく分からない子どもが多かった時代だったのでしょう。

 

読売新聞(1956年2月9日)

 
上の新聞の和歌山の少年も、トンちゃんが行方不明になったのと同じころにアメリカ軍に連れられて来て、地元の漁師さんに引き取られたそうです。
しかし彼の場合は、写真を見た伊藤さんが「目が違う」ということで人違いと分かりました。
 
しかし、今度こそ本当にトンちゃん本人ではないかと思われる少年が滋賀県で見つかったのです。
 

朝日新聞(1956年2月9日)

 

ニセ脅迫状の件でこの時大阪に来ていた伊藤さんは、すぐに少年がいる滋賀県神崎郡永源寺町(現在の東近江市高木)の西光寺に行きました。

 

西光寺(現在)

 

少年は推定17歳、「東京の伊藤」という以外は断片的な記憶しかない記憶喪失症でした。

彼は、中国東北部(旧満州)黒竜江省の佳木斯(チャムス)で西光寺住職の三男が中国人家族から日本人孤児として引き取り、1953(昭和28)年に日本に連れ帰ったというのです。

 

少年が記憶していたのは伊藤という姓だけで、中国人が信男と名づけ(住職が名づけたという話もある)、伊藤信男と名乗っていました。

 

面会した伊藤祐治さんは、信男さんがトンちゃんによく似ていると思い、「務が見つかった!」と興奮して東京のアキさんに電話をかけたそうです。

そして、懸命に彼の記憶の断片と伊藤さんの中のトンちゃんの思い出を突き合わせようとしました。

 

強いて言えば重なると思える記憶が何点かあったようで、伊藤さんは確証を求めて少年の身体も丹念に調べました。

 

しかし、最終的に母親のアキさんが「手が違う」(トンちゃんは、ボクシングをしていた父親に似てゴツゴツした手をしていたのに、少年の手は違っていた)と言い、別人と分かりました。

DNA鑑定などない時代の話です。

 

当初は、信男さんが別人だったとしても引き取って一緒に親を探してやりたいと言っていた伊藤さん夫妻でしたが、最後は断念したということです。

 

その後は有力な情報も手掛かりもなく、今年で事件発生後76年が経とうとしていますが、トンちゃんの消息は今に至るも不明なままです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

務くん(トンちゃん)

 

ニセの脅迫状を出した三宅秀夫は、「親心を試したくてやった」と供述したようですが、愚かにも程がありますショボーン

 

世の中には子どもを愛することができない親が確かにいます。

けれども、大多数の親は子ども(しかもまだ小さな子ども)が誘拐されて無事がわからないとなれば、身も心も引き裂かれる思いをするでしょう。

 

そんなことは「試す」までもない話で、子どもの誘拐が凶悪犯罪の中でも最も憎むべきものに入るのは当然のことです。

 

伊藤さん夫妻には6人のお子さんがおられて、幼くして亡くなった長女以外の5人が無事に育っていました。

長男の昭さん、次男の克さん、三男の勇さん、そして四男の務さん(トンちゃん)が息子たちで、娘が次女の梢さんです。

 

誘拐事件のあと、トンちゃんの行方が知れぬまま年月がたち、それでも諦めきれずにわずかな手がかりでもあればすぐに飛んで行く夫妻に同情するあまり、慰めるつもりで「まだ3人の息子がいるのだから……」と言う人があったそうです。

 

それに対して母親のアキさんが「いえ、務はやっぱり務です。ちょうど克(かつみ)が克でなければならないように……」と首を横に振ったと言われますが、当然のことですショボーン

 

ここで名前の上がった次男の伊藤克さんは、早稲田大学を中退して俳優座養成所を卒業し、劇団三期会(現在の東京演劇アンサンブル)に所属の俳優・声優となりました。

 

伊藤 克さん

 

克さんは、誘拐事件を描いた黒澤明監督の映画「天国と地獄」(1963)に新聞記者役で出演しています。
 
 
ウィキペディアによると、黒澤監督がこの映画を作った動機の一つは「徹底的に細部にこだわった推理映画」で、もう一つは「当時の誘拐罪に対する刑の軽さへの憤り」だったそうです。
 
当時の刑法では、未成年者略取誘拐罪で3ヶ月以上5年以下の懲役、営利略取誘拐罪で1年以上10年以下の懲役にすぎませんでした。
 
映画の最後に、捜査主任が犯人に向かって「これで貴様は死刑だ!」と言うシーンに心の底から共感を覚えたという克さんは、「誘拐にかんする限り、ボクは〝罪は憎んで人を憎まず〟なんていう言葉は通用しないと思うんです。務が誘拐されたのは、ボクもまだ15歳のときだったから、なんにもわからなかったけど、子供心にも両親の心痛はヒシヒシと身にしみました」と語っています。
 
また、克さんが俳優になってテレビや映画に出たのには、どこかで弟のトンちゃんの目にとまらないかという願いもあったからだそうです。
 
1950年代から60年代には、多くの誘拐事件が発生し、中でも「天国と地獄」が公開された直後の1963(昭和38)年3月31日に東京で発生したのが有名な村越吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件です。
 
吉展ちゃん
 
2年後に犯人の小原(こはら)保(犯行時30歳)は逮捕されましたが、小原の自供で吉展ちゃんが遺体となって発見されるという無惨な結末に、日本中が悲しみと憤りに溢れました。
 
朝日新聞(1963年4月19日夕刊)
 
朝日新聞(1965年7月7日夕刊)
 
これらの事件を受けて、1964(昭和39)年7月に刑法が改正され、最高刑が無期懲役となる「身代金目的誘拐罪」が新設されました。
 
今では、かつてのような無惨な結果をともなう身代金目的の誘拐事件はほとんど聞かなくなりましたが、13歳未満の子どもの犯罪被害件数が減少する中で、子どもの略取誘拐*の被害件数は年によっては増える傾向とのデータ(2018)もあります。
 
*暴行・脅迫または欺罔(ぎもう:だますこと)・誘惑によって、人を生活環境(家や家族など)から不法に切り離し、自分あるいは第三者の支配下におくこと
 
「子供の安全を守るための取組」より
 
被害件数として多いのが、「暴行」を除くと「強制わいせつ」「公然わいせつ」「強制性交」と性犯罪が占めていることから考えると、「略取誘拐」の目的もかつてのお金から今では性的なものが多くなっている可能性があるのではないでしょうか。
 
いずれにしても、子どもを大人の欲望の手段にし犠牲にするような卑劣な犯罪は決して許してはならないし、子どもの安全と幸福を何より大切にする社会にしなければと、あらためて強く感じた小川ですショボーン
 

『昭和・平成事件の目撃たち』株式会社宝島社2016年


参照資料
・新聞の関連記事
・東京タイムズ社会部編『世界の誘拐事件』ハヤカワ・ライブラリ、1963