天六ガス爆発事故

1970年
 

前回は、1983年に起きた「つま恋プロパンガス爆発事故」を取り上げました。

 

 

その続編になりますが、今回は1970年に大阪の「天六」(神橋筋丁目)で起きた都市ガスの大爆発事故について取り上げます。

 

 

朝日新聞(1970年4月9日)

 

(地図は現在のもの)

 

戦後高成長時代の最後の華となった大阪万国博覧会(EXPO70、3月15日〜9月13日)が、北へ10キロ余り離れた千里丘陵で開幕した矢先の1970年4月8日午後5時45分ごろ、大阪市大淀区(現在は北区)の大阪市営地下鉄2号線(現在の大阪メトロ谷町線)の延伸工事現場で、漏れた都市ガスが引火・爆発し、死者79名、重軽傷者420名という大惨事が起きました。

 

「人類の進歩と調和」を掲げた

EXPO'70開会式

 

天六ガス爆発事故現場で

噴き上がる炎

 

この地下鉄工事は、1980年代まで主流であった開削工法(オープンカット工法)で行われていました。

開削工法とは、モグラのように地中を掘り進むのではなく、この工事の場合は、26m幅の道路(都島通)の地面に幅11m、深さ5m、長さ222mの大きな溝を堀り、路線(トンネルや駅)を建設した後で埋め戻すという工法です。

 

手順としては、掘った溝の両端に沿って鉄杭を打ち込んで土塁壁(土が崩れないようにする鉄板の壁)を作り、その上にH型の鉄桁(けた)を置いてそこに鉄枠にコンクリートを流し込んだ路面覆工板(幅75㎝、長さ2m、厚さ20㎝、重量380kg)を敷き詰め、その下で工事を行うというものでした。

覆工板(ふっこうばん)は、工事中も上を車などが通行できるようにするためのものです。

 

(「たわたわのページ」より借用)

 

しかし、都市の地下には水道管やガス管などの既存埋蔵物があるので、それを破損しないように工事を進めなければなりません。

この工事でも、掘削したところに道路を横断する形で中圧と低圧の2本のガス管がありました。

4月8日の午前中の工事で周りの土を取り除いたため、ガス管は一時期宙吊りの状態になります。

そこで、それを梁(はり)に吊るす工事(懸吊作業)を行なっていましたが、それが完了するまでガス管は振動などで水平方向に揺れる状態にありました。

 

そしてその揺れの影響で、ガス管の水取器(ガス管内で発生した水を溜めて吸い上げるための部品)の接続部から管が外れてしまったのです。

 

水取器(例)

 

 

本来なら、外れやすい接合部については工事にあたって抜けどめの補強をしなければならなかったのですが、それをしていなかったのと、この中圧ガス管の敷設が1957(昭和32)年5月と古いものだったことから強度が劣化していて、工事の振動などに耐えられなかったものと考えられています。

 

 

午後5時15分ごろ、水取器の抜落ち部から都市ガスが噴出し、地下で作業していた27人は全員地上に避難しました。

 

5分後にたまたま現場を通りかかった大阪ガス北営業所のパトロールカーがガス漏れを発見し、営業所に無線で緊急車両と工作車の出動を要請しました。

同じころ、近隣住民からも消防に連絡が入り、警察や消防車が出動しました。

 

ちょうど帰宅ラッシュ時にかかっていたこともあり、現場周辺には近隣住民に加えて通行人たちが様子を見に集まってきました。

その数はどんどん増え、警察は火気の厳禁と現場からの退避を呼びかけましたが、群衆の中には履工板の上に乗る者まであり、制御不能になっていきました。

 

都市ガスは空気より軽いため、地下に溜まる一方、覆工板の隙間や通気口から地上に吹き出していました。

その時、午後5時35分ごろ、駆けつけた大阪ガスのパトロールカーが現場でエンストを起こします。

エンジンを再始動させようとした時、火花がガスに引火して車が炎上しました。

 

車は10分ほど燃え続けましたが、さらに午後5時45分ごろ、履工板の下に溜まっていたガスに「何らかの着火源」から火が燃え移って大爆発が起こり、200mに渡って覆工板が10mを超す火柱と共に吹き飛んだのです。

 

それにより、死者79名、重軽傷者420名に加えて、全半焼した家屋26戸、爆風での損壊469戸、窓ガラスなどの破損家屋1000戸以上という大災害となりました。

 

朝日新聞(1970年4月9日)

 

 

吹き飛び散乱する履工板

産経新聞(1970年4月9日)

 

事故の責任をめぐっては1971年7月に、大阪市交通局職員3人、鉄建建設従業員5人、下請け業者従業員1人、大阪ガス従業員2人の計11人が、業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴されました。

 

朝日新聞(1984年6月5日夕刊)

 

裁判は、大阪市、鉄建建設、大阪ガスの3者が公訴事実を争い、また責任の所在をめぐって互いに責任を押しつけ合ったために、15年に及ぶ長期裁判となりました。

 

1985(昭和60)年4月17日に大阪地裁(岡本健裁判長)は三者の共同責任を認め、大阪市職員と鉄建建設従業員の計8名を有罪とし執行猶予付きの禁固刑に、下請け業者従業員と大阪ガス従業員(うち1名は死亡により公訴棄却)に無罪の判決を下しました。

 

読売新聞(1980年4月17日夕刊)

 

鉄建建設の5人だけが控訴しましたが、1991(平成3)年3月22日に大阪高裁が控訴を棄却したことから、一審の判決が確定しました。

 

当時は、都市災害での刑事裁判で無罪判決が相次いでいたことから、責任追及が現場責任者にとどまるという大きな限界はあったものの、工事にあたって安全性を確保することの重要性を再認識させたという意味では画期的な判決になりました。

 

また、この事故を契機として「掘削により周囲が露出することとなった導管の防護」(ガス事業法省令77条、78条)が制定されました。

・露出部分の両端が地くずれのおそれのないことの確認

・漏えいを防止する適切な措置

・温度の変化による導管の伸縮を吸収、分散する措置

・危急の場合のガス遮断措置

 

【静岡駅前地下街ガス爆発事故 1980年】

この天六事故から10年後の1980(昭和55)年8月16日の朝、国鉄(現在のJR)静岡駅北口の地下街(紺屋町ゴールデン街)の飲食店で、最初に小規模なメタンガスの爆発があり、その後、それによって破損したガス管から漏れた都市ガスが大爆発するという惨事が起きました。

 

この爆発事故では、最初の爆発後に現場に駆けつけた消防隊員5名を含む15名の方が亡くなっています。

 

「日本の爆発事故の一覧」より

(「いちらん屋」サイトから借用)

 

朝日新聞(1980年8月16日夕刊)

 

瀕死の重傷を負った民放テレビの

カメラマンが撮影した爆発の瞬間

 

地上の惨状

(共同通信)

 

この事故を受けて、通産省の通達や法改正によって、地下街等*でのガス事故に関する保安基準が強化されています(ガス漏れ警報器の設置義務化や緊急遮断装置など)。

 

*事故が起きた「ゴールデン街」は、法律上の「地下街」には該当せず(「準地下街」)、消防法での安全基準の適用も地下街より緩かった

 

今も残る「静岡駅前地下街爆発事故」現場
FOCUS 1982年1月22日号
 

 

参照資料

・新聞の関連記事

・「失敗知識データベース」(特定非営利活動法人「失敗学会」)

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

人間の知恵の大半は「後知恵」なのでやむを得ないことかもしれませんが、事故が起き犠牲者が出なければ問題が改善されない現実に、小川はもどかしさと悔しさを感じますショボーン

 

しかし、前回と今回に取り上げた3つの事故を受けてガスの安全対策が強化されたことから、大規模なガス爆発事故(LPガス、都市ガスとも)が、先に引用した「日本の爆発事故一覧」を見てもその後に起きていないことは、犠牲になられた方たちにとってもせめてもの慰めだと思います。

 

 

天六のガス爆発事故の現場は小川の地元に近いということもあって、12月2日に親の車を借りて、事故現場近くの国分寺公園にある慰霊碑に行ってきました🚙💨

 

もちろん「相棒」も一緒です

 

大阪梅田の中心街(JR大阪駅南側)

を抜けて行きます

 

国分寺公園の一角にある

「地下鉄工事現場ガス爆発犠牲者」

慰霊碑

 

近隣住民も多数犠牲になった慰霊碑は

清掃されお花が供えられていました

 
 

 

小川も亡くなった方たちを悼んで

献花しました花

 

慰霊碑裏面には

事故について書かれています

↓↓↓↓↓

    

昭和四十五年四月八日午後五時過ぎ大淀区国分寺町五番地先の市道北野都島線を通る大阪市営地下鉄谷町線建設工事現場で発生したガス爆発事故は、平和な夕暮の町を一瞬にして焦熱地獄と化し、子供、通勤者、沿道の住民、買物客、学生のほか、工事救援関係者を含め七十九名の尊い生命を奪い、四百有余名に上る重軽傷者を出し、また、ガスの噴炎による火災、爆風などによる沿道の被害は、焼失した家屋二十六戸四十八世帯、損傷した家屋数百の多数に及ぶ大惨事となった。この惨事は、大都市大阪がその過密化を防ぐための再開発途上に起きた未曾有の大災害であったが、今後都市の建設工事を実施するに当たってはさらに安全性の確保に努め、再びこのような惨事を引き起こすことのないようここに祈願と決意を新たにするとともに、殉難の犠牲者七十九柱の尊い御霊の冥福を祈るため、遺族、地元有志並びに関係者相寄り、慰霊碑を建立したものである。

昭和四十五年九月建立

 

公園の隣にある真言宗国分寺

帰ってから知りましたが

この寺院の境内には、

 

犠牲者の名前を刻んだプレートがありました

写真の男性は、事故で父親を亡くした

遺族の方(当時、中学3年生)

(毎日新聞、2020年3月18日)

 

 読んでくださり、ありがとうございましたおねがい飛び出すハート