【現地レポ】

「毒ガス」と「うさぎ」の島へ

前回のブログでは、広島県竹原市にある「毒ガス」と「うさぎ」の島、大久野島を取り上げました。 

 

 

🐰今回は現地レポートです🐰

 

 

2023年8月26日(土)、20時すぎに仕事を終えた小川は、トラ吉を連れてそのまま西明石駅発の新幹線こだまに飛び乗りました。

 

 

 

夜遅くなったので、竹原市内で一泊。

そして8月27日(日)の朝、早く起きて大久野島に向かいました。

 

大久野島への船が出る忠海(ただのうみ)港にまず到着。

船の待合所は、色もピンクで「うさぎ」一色です。

やはり今は「うさぎの島」のイメージを前面に出して観光客を集めている大久野島。

待合所のお客さんも子ども連れの家族や若いカップルが目立ちました。

 

 

 

船は、忠海港ー大久野島ー盛港(大三島)を往復しており、車も乗せるフェリーと乗客だけの船があります。

 

ちなみに、忠海港の「忠」と盛(さかり)港の「盛」は、その昔、芸予諸島を根城に勢力を誇っていた水軍を平定するため派遣された平忠盛が、任務を果たし、自分の名前「忠盛」を二つに分けて地名にしたことに由来するとか。

 

小川が乗ったのは、人だけを乗せるこのピンクの船でした。

乗客は数十人。

夏休みももう終わりということもあってか、日曜日にもかかわらず、思ったより観光客は少なめの印象です。

 

 

わずか15分の船旅でしたが、船の中では大久野島の紹介とうさぎとの触れ合いルールについてのアナウンスが流れていました。

 

毒ガスについては毒ガス資料館の名前が島の観光スポットの一つにあげられただけで、アナウンスも「うさぎの島」一色です。

 

 

向こうに見えるのが忠海港の待合所です

 

一つちょっとした気づきが……

小川は、大久野島をこれまで「おおくのじま」と読んでいたのですが、正しくは「おおくのしま」だそうです。

 

 

隣に「小久野島」という無人島があって、「大・久野島」と「小・久野島」だと知ると、確かに「おお・くのしま」の読みの方がしっくりきます。

 

そんなことを考えている間に、大久野島の2番桟橋に到着。

無料バスでひとまず「休暇村」まで行きました。

 

かつて工場が立ち並んでいた場所も
今は更地の広場になっています
 

 

船内のアナウンスでは、島内のうさぎは700羽とのことでしたけれど、上陸して見た限りではうさぎの姿はまばら……

暑さのせいもあったのでしょうか、イメージしていたうさぎが群れになって押し寄せる……という光景は最後まで見られませんでした。

 

休暇村でレンタサイクルの電動自転車を借りて、島の探索に出発です!

 

 

 

マップ左下の休暇村を出発して、自転車は島を時計回りと決まっているので、順路に従って毒ガス関連施設の遺構を見ながら、最後に毒ガス資料館を見学し慰霊碑に寄るという流れになります。

 

 

まず最初は、上の地図⑩の毒ガス貯蔵庫跡です。

 

 

こじんまりした貯蔵庫で、

タンクを置いた台座が残っています

 

さらに進んで、かつては三軒家地区に次ぐ規模の毒ガス製造工場群があった長浦地区ですが、今はテニスコートになっていて、当時の面影はありません。

 

かつての長浦地区工場群

 

工場跡地はテニスコートになっています

山上に見えるのは日本一高い送電鉄塔

 

道から少し入ったところに、地図⑦の毒ガス貯蔵庫跡がありましたが、すっかり草木に覆われて、壁のようなもの以外よく見えませんでした。

 

 

 

あまりの暑さに、途中の木陰で休憩をしながら回りました。

 

 

人がじっと止まっていると餌をもらえると思うのか、木陰で涼んでいたうさぎたちが次々と現れて寄ってきます。

 

忠海港の待合所でうさぎの餌(ペレット)を買って行ったので、うさぎたちに餌をやりながらほっと一息です。

 

 

島にはネコの持ち込みは厳禁ですけれど、トラ吉は特別です爆笑

すぐにうさぎさんたちとも仲良くなりました。

 

 

いろいろなポーズのうさぎたちと楽しく過ごしました。

 

 

 
さて、元気を回復して出発です。
最初は、地図⑥の長浦貯蔵庫跡です。
 
ここはかなり大規模な貯蔵庫でした。
 
 
立ち入り禁止で中には入れません
 

貯蔵庫の大きさが分かると思います

 

長浦地区を出るあたり、前方の空を見上げると青い空に入道雲が……。

 

毒ガスの遺構を巡る観光客は

あまりいないのか、道は閑散としています

 

上の写真の先を右に回ったあたりから、かなりの上り坂が続く苦しい道です。

 

上り坂の終わり近くに、島の内部に向かって行く道があり、少し入ると北部砲台のメインの遺構がありました(下の図で「24K×4=24センチ砲4門」とある方)。

 

 

 

しかし、自転車を置いたままかなり入り込むことになるので、それ以上先に行くのは断念しました。

 

島の北端を過ぎて東側に回り込んだあたりで、道の前方に次のような遺構が見えました。

 

 

これも、上の地図で「12K×4=12センチ砲4門」とある北部砲台跡の一部です。

 

先に行くと……

 

 

北部砲台跡は毒ガス工場の遺跡ではなく、その前の芸予要塞の施設ですが、要塞が廃止されたあと、毒ガスの貯槽施設として使われたようです。

 

上の写真、左に見える入り口の中は……

 

 

このようなドーム状の空間で、弾薬庫だったようです。

 

その左右には、かつての砲台の遺構がありました。

12センチ速射カノン砲が2門ずつ左右に設置されていました。

 

 

壁のくぼみは、砲弾を置くためのものだったとか。

 

 

 

北部砲台跡を過ぎて少し行ったところに、このようなものがありました。

説明図に載っていないのではっきりとは分かりませんが、形状から井戸の跡かもしれません。

 

 

ちなみに、毒ガスの原料にはヒ素が含まれていたため、島の土壌にはヒ素が染み込んでおり、今でも地下水からヒ素が検出されるので、井戸水は飲めないそうです。

飲料水はすべて島外から運んで来ているとか。

 

その先は、特に何もないまま長い下り坂が続きます。

途中で⑤火薬庫跡に行く道がありましたが、「立ち入り禁止」でした。

 

2018(平成30)年7月の西日本豪雨災害で大久野島でも土砂崩れが発生し、そのために今でも「立ち入り禁止」になっているところがいくつもあるのです。

 

そして、坂を下りきったところで現われたのが、島で一番有名な遺構だと思いますが、①の発電所跡です。

 

 

 

柵の内側には入れないので、

外で自撮りしました。

 

 

戦争末期には、説明板にあるように、動員された女子学生がここで風船爆弾の風船を作っていました。

 

かつては、桟橋から軍需物資を発電所に運び込むのに使われたのではないかと思われる隧道(トンネル)ですが、向こうに見えるのは今は青い海と空、そして観光客の姿……平和な光景です。

 

 

島を一周して、船が着いた2番桟橋横の待合所にある温度計を見ると、35℃。

しかし、体感温度は優に40℃超えでした。 

 

 
桟橋から少し行ったところにあった幹部用の防空壕跡。
 
 
 
ぶ厚いコンクリートでできた防空壕で、立ち入りできませんので中の構造は分かりませんが、この入り口から降りていくかなり深いもののように見えました。
 
幹部以外の防空壕は、「たこつぼ」と呼ばれた浅いものだったらしく(説明板を参照)、ここでも指導者たちと比べて末端の人間の命の扱いがいかに軽かったかうかがえます。
 
大久野島に空襲がなかったことがせめてもの幸いです。
 
こうしていよいよ、毒ガス資料館に到着しました。
 
 

 
資料館の内部は撮影禁止でしたので、代わりに、いただいたパンフレットをご覧ください。
 
 
 
入館者は決して多くはありませんでしたが、入った方は熱心に見ておられました。
特に時間をかけて展示を一つひとつ見ておられた男女があり、時折交わされる言葉からすると、中国からの観光客だったのが印象に残りました。
 
先のブログに書きましたように、資料館には、作業に従事した人たちが受けた毒ガス被害とともに、彼らがこの島で作った毒ガスが中国で使われたという加害の展示もされています。
 
資料館の近くにも、こうした遺構がありました。
 
 
最後に訪れたのは、「大久野島毒ガス障害死没者 慰霊碑」です。
 
 
ここには、慰霊碑を中心にして両脇に次の3つの碑が建てられています。
 
化学兵器の即時廃絶を世界に訴える「宣言」の碑
 
「毒ガス工場と毒ガス障害」を説明した碑
 
「くのしまの/けむりに逝きし同胞の/
み霊よとわに/安らけくあれ」と刻まれた碑
「久野島」を「苦の島」とかけているのでしょうか
 
この慰霊碑の近くにある大久野島神社の境内に、1937(昭和12)年に建てられた、毒ガス生産の犠牲者を鎮魂する「殉職碑」があります。
 
 
なぜ似たような碑が2つも……と最初は小川も思ったのですが、2つの碑はまったく趣旨の異なるものでした。
 
「殉職碑」には、毒ガス事故で亡くなった3人の方の名前が刻まれているそうです。
しかし、実は毒ガス製造に携わって体調を悪くしたり病気になった人は、すぐに「医務解雇」として厳重に口止めされた上で島から追い出されたため、そうして亡くなった人たちの名前がこの碑に刻まれることはありませんでした。
 
つまりこちらの碑は、毒ガス製造で殉職したごく一部の人を讃えて、いっそう作業に励むよう従業員たちを鼓舞するために建てられた、「鎮魂」という名の軍事施設だったのです。
 
関心をお持ちの方は、詳しくはこちらの資料をご覧ください↓
 
山内正之「大久野島の遺跡の概説」(2004年3月作成)
こうして島を一周した小川は、最後はちょっと時間足らずになりましたが、自転車を休暇村に返却して帰途につきました。
 

 
今回の主な目的は、毒ガス製造にかかわる遺構の探訪でした。
 
けれどもその合間に、買って行った餌でうさぎさんたちに遊んでもらい、楽しい時間も過ごすことができましたニコニコ
 
大久野島には宿泊や食事のできる休暇村があり、テニスコートやキャンプ場などもあります。
また機会があれば、次は今回見られなかった遺構をゆっくり探索したいと思いました。
それまでに豪雨災害の傷跡が修復され、立ち入り禁止の道がなくなっていることを願いながら。
 

左上は昼食にした特産タケノコ入りバーガー

下段が大久野島神社

 
 
桟橋で帰りの船がこちらに向かってやって来るのを眺めながら、この平和な風景を二度と壊してはいけない、戦争に備える努力ではなく、戦争を防ぐ努力をその何十倍何百倍もしなければ、この島の毒ガス製造で亡くなった方、その毒ガスを使われて亡くなった方たちから、「私たちという犠牲がありながら、そこから何も学ばずに、あなたたちはまだそういうことを繰り返しているのか!」と叱責されるに違いないと思わずにおれなかった小川です🥺
 

 

読んでくださり、ありがとうございました🥰