「毒ガス」と「うさぎ」

大久野島の二つの顔

 

「うさぎの島」の住人たち

(広島ホームテレビ)

 

ご存知の方も多いと思いますが、瀬戸内海の芸予(げいよ)諸島(安=広島、伊=愛媛)に、「うさぎの島」として知られる無人島があります(休暇村の従業員など、お仕事の方は常在しています)。

島の名は、広島県竹原市忠海(ただのうみ)町の大久野島」です。

大久野島は、面積0.7㎢、周囲4.3㎞のこじんまりした島で、かつては7戸、数十人が住んでいました。

 

ちなみに、以前このブログで取り上げた「風の子学園」事件の小佐木島も、芸予諸島東部の小島です。

 

 

大久野島に生息する野生のうさぎ(外来種のアナウサギ)は、1963(昭和38)年に島にできたリゾート施設「国民休暇村」が、1971(昭和46)年に「島のアイドル」になればとうさぎのつがい8組を島に放したところ、天敵のいない好条件から予想を超えて繁殖したのがもとになったと言われています(中国新聞デジタル、2023.2.1)。

 

その後、観光客を呼び込もうと2011(平成23)年の卯年を機に「うさぎの島」としてネットで世界発信され、海外にも知られるようになりました。

 

一時は千羽を超えたうさぎですが、コロナ禍で観光客が激減して餌が足らなくなり、数が半減したそうです。

最近になってようやく観光客が戻りつつあるとのことです。

 

こうして、今では「うさぎの島」で知られる大久野島ですが、戦前・戦中は秘密のベールに包まれ地図からも消されて毒ガスを製造していた「毒ガスの島」でした。

 

 

公式地図で白く塗りつぶされた大久野島

左:1932年測量・1947年発行/右:1932年測量・1938年発行

国土地理院発行5万分の1地形図

 

このブログでは前回、「満州第731部隊」を取り上げました。

石井四郎軍医の率いた731部隊では、細菌兵器の研究開発と製造が密かに行われていましたが、毒ガスは日本本土から持ち込まれたものを使用していました。

 

そこで、その毒ガスはどこでどのように製造されていたのか調べてみると、大久野島に行き着いたのです。

 

島民を強制移住させて大久野島で毒ガス工場の建設が始まったのは1927(昭和2)年です。

1929(昭和4)年5月19日には「陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)火工廠忠海兵器製造所」として開所し、1933(昭和8)年ごろから陸軍唯一の毒ガス製造工場として大量生産が開始されました。

 

造兵廠とは武器弾薬を製造する軍の工場ですが、銃や大砲といった武器そのものではなく火薬や砲弾・爆弾を製造するのが火工廠で、毒ガス製造も火工廠でおこなわれました。

 

陸軍火工廠の製造所の中心は、東京都板橋区にありました。

 

火工廠板橋火薬製造所正門

 

東京家政大学板橋キャンパスに残る火工廠の建物

 

しかし、国際条約(ジュネーブ議定書:日本は署名はしたが1970年まで批准せず)で使用が禁じられている毒ガスの製造にあたっては、機密の保持が容易で大量生産が可能、万一事故があっても比較的被害が少ないといった条件を考えて地方に製造所を建てることを決め、全国35ヶ所の候補地から選ばれたのが大久野島だったそうです。

 

ちなみに、当時日本にはもう一ヵ所毒ガスを製造していた軍の工場があります。

神奈川県寒川町の相模海軍工廠で、そこでは主にイペリット爆弾が製造されていました。

 

70万㎡あった相模海軍工廠の敷地

2002年にも毒ガス入りのビンが建設現場

で見つかり、作業員11人が被災しました

 

1940(昭和15)年に、陸軍の武器弾薬製造諸部門が「兵器廠」に統合されたのに伴い、大久野島の毒ガス工場も「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」と名称を改めます(「第二」=旧火工廠)。

 

 

 

上の二つの地図を交互に見てください。

毒ガス製造工場の中心は、現在「休暇村」がある島で一番開けた「三軒家」地区(地図の左下)にありました。

 

三軒家の工場群

 

ここを中心に、全島に工場や貯蔵庫、発電所や他の諸設備が配置されていました。

 

なお、北部・中部・南部と三ヵ所に砲台跡があるのは、広島(陸軍)と呉(海軍)を守るために1902(明治35)年に作られた芸予要塞のもので、一度も使われることなく1924(大正13)年に廃止され、毒ガスの保管所に改築されました。

 

先に触れたように、大久野島では1929(昭和4)年から1945(昭和20)年まで毒ガスが製造され、戦争末期には風船爆弾の風船も動員学徒によって製造されました。

風船爆弾とは、ジェット気流に乗せてアメリカ本土まで爆弾を積んだ風船(気球)を飛ばしたもので、当初は生物化学兵器を乗せることを検討しましたが、アメリカの報復を恐れて断念したそうです。

 

大久野島では、稼働期間中に合わせて6600トンの毒ガスが製造され、のべ6500人を超える人びとが作業に当たりました。

作業に従事したのは、初期は軍の技術者や軍属(軍人以外で軍隊に所属する者)、後には毒ガス製造について知らされないまま動員された徴用工や勤労学徒などが加わりました。

 

製造のピークは1940・41(昭和15・16)年ごろで、それ以降は戦況の悪化で原材料の入手が次第に困難になっていったそうです。

 

製造された毒ガスは種類によって色で呼び分けられ、ドラム缶に帯状にその色で印がつけられていたそうです。

米軍がベトナム戦争で用いた枯葉剤も同じように色で種別され、最も多用されたのが「オレンジ剤(Agent Orange)」だったことは、先のブログに書いたとおりです。

 

「オレンジ剤」のドラム缶

 

〈大久野島で製造された毒ガスの種類〉

 ①きい()剤(びらん剤:皮膚や粘膜をただれさせる):イペリット、ルイサイト

 ②あか()剤(嘔吐剤):ジフェニルシアノアルシン

 ③みどり()剤(催涙剤):クロロアセトフェノン(CNガス)

 ④あを()剤(窒息剤):ホスゲン

 ⑤しろ()剤(発煙剤)

 

陸軍の毒ガス兵器の研究・製造・訓練は、次のような役割分担と流れで行われました。

 ❶毒ガスの研究・開発:陸軍科学研究所(東京百人町)

 ❷化学物質(毒ガス自体)の製造:東京第二陸軍造兵廠忠海製造所(大久野島

 ❸砲・爆弾*に毒ガスを充填:東京第二陸軍造兵廠曽根製造所(北九州市小倉南区)

   *砲・爆弾の容器は、小倉陸軍造兵廠(小倉北区)で製造

 

曽根製造所の遺構(現・陸上自衛隊曽根訓練所)

(ガス漏れ時に破って換気するため窓が大きい)

 ❹運用訓練:陸軍習志野学校(千葉県)

 

こうして製造された毒ガス兵器は、731部隊を含む中国大陸の陸軍部隊に運ばれ、約2000回実戦で使用されて9万人以上を殺傷したと推定されています。

つまり、細菌兵器とは比べ物にならない大量の化学兵器が大久野島で作られた毒ガスをもとに製造されて中国に持ち込まれ、使用されたのです。

 

それが戦後になっても日本軍による遺棄化学兵器の処理問題として残ることになります。

 

中国で発掘された遺棄化学弾

 

なお、毒ガス兵器は風船爆弾と同様に報復を恐れてアメリカ軍への使用を日本軍は禁止し、中国人/軍を対象に使用しました。

 

この日本軍の毒ガス兵器使用についても、極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれるはずだったのが、もしそうなると今後にわたって自国軍の行動を縛ることになり国益に反すると考えたアメリカが、理不尽にも問題にすることを取り下げたと言われています。

 

このように、731部隊の細菌兵器についても、毒ガス兵器についても、公には誰も責任を問われることなく、犠牲者たちの無念は宙に浮いたまま放置されてしまったのです。

  

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

731部隊が撤収時に、証拠隠滅のために、残った数十人の「マルタ」(人体実験に使われた人たち)を毒ガスで「始末」したという話を読んで、その毒ガスはどこで作られたのだろうという疑問から大久野島にたどり着いたことは最初に述べたとおりです。

 

大久野島で毒ガスが製造されていたことについては小川も以前から知っていましたが、そこが陸軍で唯一の毒ガス製造所だった(他に海軍の製造所が一カ所あった)ことを、今回知りました。

 

日本も署名して表向きには賛意を示したはずのジュネーブ議定書が禁止する生物化学(細菌・毒ガス)兵器を、製造・保管しただけでなく、密かに(毒ガスの場合はかなり広範囲に)日本軍が使用した事実は、「軍隊とはそういうもの」とは思いつつも、小川にとってはやはり衝撃でした。

 

戦争や軍隊組織がもつ本質的な狂気(非人道性)は、枯葉剤を浴びたベトナム人やその子どもたちはもちろん、その散布に関わった米軍関係者にも多くの健康被害をもたらしたことに見られると以前に書きましたが、大久野島でも(特に大きな事故が起こったわけではないにもかかわらず)毒ガス製造に携わった6500人のほぼ全員が多かれ少なかれ被毒したと言われます。

 

戦後になって残った毒ガスの廃棄処理にあたった人を含めると、大久野島での毒ガス障害者は6800人に及ぶと見られています。

 

毒ガス製造にあたっては、作業員は防毒服とマスクを着用していましたが、ガスが服の隙間から入ったり、防護服等の不足から複数人で使い回しせざるをえなかったために、ほとんどの人が作業中に毒ガスにさらされたのです。

 

大久野島の「毒ガス資料館」に

展示されている防毒服とマスク

 

「完全防護で作業してもできたイペリット障害」

(武田英子『地図から消された島』より)

 

その結果、肺炎や慢性気管支炎など呼吸器に障害を発症したり、呼吸器系のガンにかかったりして、戦後も多くの人が毒ガスの後遺症に苦しみながら亡くなりました。

 

大久野島毒ガス障害死没者慰霊碑

に献花する遺族

(毎日新聞、2022年10月21日)

 

このように、敵味方を問わず、末端の人間たちの生命や人生や健康などほとんど配慮することもなく使い捨てにする戦争・軍隊の狂気を、ベトナム戦争、731部隊に続き、大久野島でも見せつけられた小川は、背筋の凍る思いでした。

 

毒ガス製造に従事したことの

「加害の禍根」を語る藤本安馬さん

(東京新聞、2019年8月10日)

*参照資料の【毒ガスと戦争】(TBS)は

藤本さんの最後の証言です

(2022年12月11日逝去)

 

何年も何年も教育を受けて、私は「戦争人間」になった。

毒ガスを作って中国人を皆殺しにする——これを当たり前だと思う人間になってしまっていた。

 

大久野島の過去は、毒ガス資料館に残されている。

資料館では、被害の証拠だけではなくて、加害の証拠の両方を明確にしている。

 

ところが、大久野島は「うさぎの島」、観光客は資料館の前をバスで素通りする。

まず資料館を視察する、勉強するということになっていない。

大久野島の過去は、毒ガスを作っていたという歴史は、通り過ぎていくんだ。

 

自分の生活では基本的人権は保証されているのか侵害されているのか、それを明確にしないと平和とはなんぞやを語ることはできませんよ。

それを明確にしないと、繰り返しますよ。

 

私の話の結論はそこにあるんじゃないですか?

そして、その話を聞いたあなたは、何をこれからどうしなければならないか……

それをね、私はお話をしました。

 

「毒ガスと戦争」での証言より一部抜粋(小川)

 

そして、その存在自体が人間と相いれない生物化学兵器や核兵器など非人道的な無差別殺傷兵器の一日も早い廃絶と、そうした兵器に存在理由(口実)を与える国際緊張の緩和と紛争の平和的解決に向けたイニシアチブを、加害(与えた苦しみ)と被害(受けた苦しみ)の両面で多くを経験したはずの私たち/私たちの国が、もっと積極的に果たさなければならないのではないかと、一連の取材を通して改めて思った小川です🥺 

 

参照資料

・関連する新聞記事、ウィキペディアの記事

・武田英子『地図から消された島 大久野島 毒ガス工場』ドメス出版、1987

・「大久野島の旧軍施設」arch-hiroshima、2001

・「座談会 かながわの学徒勤労動員⑵」WEB版『有隣』393号、2000.8.10

・山田朗「陸軍登戸研究所と秘密戦」『生物学史研究』Vol.97、2018

・松永猛裕・藤原修三「中国遺棄化学兵器処理」『安全工学』Vol.40, No.6、2001

・【毒ガスと戦争】「毒ガスの方程式を忘れることはできない」大久野島にあった旧陸軍毒ガス工場で製造にかかわった男性 亡くなる前の最後の証言」TBS NEWS DIG

・解説付き【歴史探訪動画】旧陸軍毒ガス工場跡(旧東京第二陸軍造兵廠曽根製造所跡)

 

 

 

 
 

 

 
 

 

読んでくださった方、ありがとうございます🥰

今後とも宜しくお願いいたします💕