731部隊の

細菌兵器開発と人体実験

 
前回のブログでは、ベトナム戦争時にアメリカ軍が非人道的な化学兵器(枯葉剤)を大量に散布したため、多くの人がその影響で命と健康を損ない、また生まれてくる子どもに奇形という重い障害が起きた(多くは胎児の段階か生まれてすぐに亡くなった)ことを、ベトちゃんドクちゃんという結合双生児のケースを紹介して考えました。
 
ベトちゃんとドクちゃん
 
そのブログを準備していた2023年7月24日、作家の森村誠一さんが90歳で亡くなったというニュースが流れました。
 
 
【森村誠一と熊谷空襲体験】
『人間の証明』など社会派の推理小説で知られる森村誠一さんは、生前に新聞のインタビューに答えて、「そもそも、私が作家になろうと思ったきっかけは、出生地の熊谷での日本最後の空襲体験です。当時の私はまだ12歳。近所の川にはおびただしい数の遺体が折り重なり、川底が見えないほどでした。戦争は国民の命だけではなく各人生を破壊します。この惨状をいつか文字にして残したいと思い、それから何が何でも作家になりたいと考えるようになりました」と述べています(2015年6月24日、日刊ゲンダイDIGITAL)。
 
1945(昭和20)年8月15日は、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏し戦争が終わることを、正午に昭和天皇が「玉音放送」で国民に告げる日でした。
 
ラジオで「玉音放送」を聴く
東京・四谷の住民たち
(毎日新聞、1945年8月16日掲載)
 
ところが、その15日の午前0時23分から1時39分にかけて、米軍のB29爆撃機93機が、埼玉県熊谷市に「日本最後の空襲」をしました。
 
当時熊谷市には、陸軍の戦闘機「隼(はやぶさ)」や海軍の「ゼロ戦」(設計は三菱重工)のメーカーで知られる中島飛行機(後身が今のSUBARU)の拠点部品工場がありました。
 
しかし爆撃は、軍需工場にとどまらず熊谷の街全体を焼け野原にしたのです。
 
空襲で破壊し尽くされた熊谷の街
 
明け方まで続いた猛火により、「市街地の74%に相当する35万8000坪、全戸数の40%に相当する3630戸が焼失。全人口の28%に相当する1万5390人が被災し266人が死亡、約3000人が負傷した。市街地の中心部を東西に流れる星川周辺では、人家が密集していたこともあり100人近い死者を出し、空襲後は死傷者であふれかえった」(Wikipedia「熊谷空襲」)そうです。
 
12歳の森村少年が、川底が見えないほど
折り重なった遺体を見た星川……
戦後、湧水がなくなり水が枯れている
(昭和24年4月、成沢寿さん撮影)
 
【悪魔の飽食】
ずいぶん前になりますが、祖父の本棚で小川は、森村さんが書いた『悪魔の飽食』というタイトルの本を見つけました。
 
1981・82・83年と出された三部作
 
おどろおどろしい題に怪奇小説の類かと思ったほどですが、よく見ると「「関東軍細菌戦部隊」恐怖の全貌!」という副題がついた731部隊についての長編ドキュメントで、光文社がカッパノベルスのドキュメント・シリーズとして出したものでした。
 
 
当時、731部隊についてほとんど知らなかった小川は、祖父からこの本を借りて読み、大きな衝撃を受けました。
 
そしてこのたび、ベトナム戦争での枯葉剤作戦を調べていたのと森村さん死去のニュースが重なって、かつて日本も731部隊が人体実験を繰り返して生物化学兵器を開発し、一部で実際に使用したという話を思い出したのです。
 
【731部隊とは】
 
731部隊上級幹部たちの創設8周年集合写真
この時の部隊長(前列中央で軍刀を持つ)は
北野政次軍医少将
(1943年6月25日撮影)

旧日本陸軍の731部隊は、正式名称を「関東軍防疫給水部本部」と言います。
 
関東軍とは、日露戦争の結果、ロシアが持っていた中国からの租借(そしゃく)権を日本が引き継いだ遼東半島(関東州)に駐屯した陸軍部隊です。
関東軍は、謀略をめぐらして日中戦争勃発や傀儡(かいらい)国家「満州国」建国へと暴走し、最盛期には約70万もの兵力を擁し絶大な権力を振るいました。
 
(教材工房「世界史の窓」)
 
その関東軍が、1936(昭和11)年に「関東軍防疫部」を新設し、1940(昭和15)年には「関東軍防疫給水部」に改編します。
ハルビン市の南東15キロにある平房(ピンパオ/へいほう)区に置かれた本部の通称が「満州第731(ななさんいち)部隊」です。
 
6キロ四方に及ぶ広大な施設は、4つの村の住民を強制移住させ、1万5千人の中国人の強制労働によって建設されました。
過酷な労働条件のため、建設労働者の3分の1が命を落としたと言われます。
 
731部隊の施設中枢部(説明は小川)
 
731部隊の施設全景(航空写真)
 
施設の全体図
黄色い四角の部分が中枢部
 
施設の建物は、部隊の撤退時に
証拠隠滅のため爆破された
(暖房と発電のためのボイラー室の残骸)
 
【731部隊の任務】
関東軍「防疫給水部」本部と言われるように、731部隊の表向きの任務は、伝染病を予防(防疫)し安全な水を軍隊に供給(給水)することで、そのための技術や機器を開発する組織でもありました。
 
石井四郎が開発し特許を取得した
汚水から細菌を除去する「石井式濾水器」
(東京新聞、2020年8月19日)
 
また731部隊は、極寒の地「満州」で、兵隊が凍傷(強い冷気にさらされた皮膚の組織が凍り、悪化すると壊死する傷害)にかかるのをどう防ぎ、また治療するかといった研究もしていました。
 
予防・治療のための普通の医学研究のようですが、担当した医師たちは、研究のためとしていろいろな条件のもとで生きた人間を故意に凍傷にさせ「治療」する人体実験を繰り返していたのです(これについては、最後にもう一度振り返ります)。
 
凍傷の人体実験がおこなわれた凍傷実験室
 
そして何より、部隊の最重要の極秘任務は、細菌兵器の開発でした。
 
【石井部隊長と731部隊の医師たち】
731部隊の部隊長だったのが、軍医の石井四郎(最高位は軍医中将)です。
 
 
石井四郎は、1892(明治25)年に千葉県山武郡千代田村(現在の芝山町)加茂部落の旧家(地主で造り酒屋)の四男として生まれ、京都帝国大学(以下、京都大学)医学部を卒業するとすぐに軍医になります。
 
石井四郎の生家の屋敷
 
陸軍病院や陸軍軍医学校に勤務したあと、京都大学大学院に派遣されて細菌学を学び、1928(昭和3)年から2年間、ヨーロッパで第一次大戦での生物化学兵器の効力に関する情報を集めます。
 
1930(昭和5)年、帰国して陸軍軍医学校の防疫学教官になった石井は、1932(昭和7)年に生物兵器を研究する防疫研究室を軍医5人で立ち上げ、同時に「満州」に研究・実験施設を設置しようと出先機関として関東軍防疫班を秘密裏に組織します(最初は石井の出身地から「加茂部隊」、その後に彼の変名から「東郷部隊」と通称)。
 
防疫研究室での石井四郎
(1932年撮影)
 
それをもとに、1936(昭和11)年に関東軍防疫部が新設され、正式な陸軍部隊になったことは、先に見た通りです。
 
731部隊は、最盛時には3千人を超える隊員を擁し、莫大な資金が軍から提供された一大組織で、石井が卒業した京大医学部をはじめ、東大、慶應大などから優秀な医師・研究者が集められていました。
 
ただし、彼らの多くは自分が担当した研究について知っていただけで、731部隊で何が行われていたかの全貌を知りえたのは、石井以外にはごく一部の最高幹部や関係者だけだったようです。
 
隊員は担当する任務について他人に話すことを厳禁され、所属する班を超えての私的な交流も禁止・制限されていました。
 
さらに秘密を守るために石井は、3人の兄(虎男、剛男、三男)や故郷の加茂集落の縁故者、それに陸軍軍医学校防疫研究室の関係者たちを731部隊の要所に配し、目を光らせていたのです。
 
731部隊員を馬上から閲兵する石井部隊長
身長180センチを超える大男だった
 
【人体実験と「マルタ」】
石井四郎が「内地(日本本土)ではできないこと」をするために作った731部隊での人体実験は、大阪公立大学の土屋貴志さんによると、目的別に大きく次のように分けられます。
 

①病気に感染させる 
ペスト、脾脱疽【炭疽】、鼻疽、チフス、コレラ、赤痢、流行性出血熱など。その目的は、未知の病原体を発見するため、病原体の感染力を測定するため、感染力の弱い菌株を淘汰し強力な菌株を得るため、細菌爆弾や空中散布の効果を調べるため、など、さまざま。被験者は死後に解剖されたり、感染確認後に生きたまま解剖されて殺されました

 

②確立されていない治療法を試す 
手足を人為的に凍傷にしてぬるま湯や熱湯で温める[凍傷実験]、病原体を感染させて開発中のワクチンを投与する、馬の血を輸血する、など

 

③極限状態における人体の変化や限界を知る 
毒ガスを吸入させる、空気を血管に注射する、気密室に入れて減圧する、食事を与えずに餓死させる、水分を与えずに脱水状態にする、食物を与えずに水や蒸留水だけを与える、血液を抜いて失血死させる、感電死させる、新兵器の殺傷力テストを行う、など

 

次の表は、731部隊の平澤正欣軍医によるペスト感染実験の博士論文に載せられたもので、ペスト菌に感染させた「さる」が13日目に死亡するまでの体温変化を記録したものです。

京都大学に提出された論文には「さるが頭痛を訴えた」との記述があるそうですが(産経ニュース、2018年4月5日)、①にあたるこの実験は本当に「さる」を用いて行われたのでしょうか……

 

ちなみに、人体実験に使われた人たちは後述するように「マルタ」と呼ばれていましたが、本橋信宏氏によると「満州猿」という蔑称もあったそうです。

 
「731部隊と京都大医学部とは」より
(京都新聞、2020年2月1日)
 
あまりにも残虐非道な人体実験の数々を具体的に描写するのは、小川には苦しすぎますので控えます。
 
ただ、実験材料にされた人たちについてここで書いておこうと思います。
 
関東軍憲兵隊と同特務機関は、中国に潜入してきたソ連軍情報将校や八路軍(中国共産党軍)の捕虜、それに抗日運動に加わって逮捕された中国人やモンゴル人や朝鮮人らのうち、二重スパイなどに利用価値がない人たちを731部隊にまとめて移送し、彼らが人体実験に供されたのです。
 
 
彼らは「マルタ(丸太)」と呼ばれて、ロ号棟の特設監獄(通称「丸太小屋」)に収容されました。
 
「ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。彼らがこの中に入れば、その名前は胸につけられたアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。私たちは、マルタ何本と呼んでいる。」(人体実験に関わった上田弥太郎の手記)
 
『悪魔の飽食』より
 
「マルタ」と呼んだのは、人体実験していることを隠すと同時に、彼らを「人」ではなく単なる「物」とみなすことで、非人道的な実験を行なうことへの抵抗感を心理的に緩和させたのではないでしょうか。
 
731部隊で総じてどれほどの「マルタ」が実験材料として消費されたのか、三千人以上という証言から千人未満という推定まで差がありますが、いずれにしても相当な人数だったことは間違いなく、また戦争末期に部隊が撤収するとき、施設の爆破や書類の焼却と同様、残っていた数十人の「マルタ」も証拠隠滅のために殺されました。
 
また「マルタ」には女性もいました。
彼女らは主に梅毒の治療実験に使われ、病気の男「マルタ」と実験者の見ている前で性行為させられたそうです。
梅毒が研究されたのは、性病が陸軍部隊で蔓延していたからです。
 
それだけでも十分過ぎる非道なのですが、さらにおぞましいのは、女性の「マルタ」が入ると、まず写真班が彼女らの裸体、特に下半身をいろいろな角度から撮り、その写真が上級隊員に流され、いわばエロ写真として見られていたという話(『悪魔の飽食』)です。
 
731部隊の幹部隊員が人としてどれほど腐敗していたかをうかがわせる話であると同時に、そういうマヒした感性だからこそ平気でむごい人体実験ができたということなのでしょう。
 
【第一次大戦と毒ガス兵器】
1915年4月22日、ベルギー西部のイーペルの草原で、ドイツ軍は人類史上初めて致死性の高い大量殺傷用ガス(この時は、人の粘膜を破壊し呼吸困難にさせる塩素ガス)を兵器として使用し、わずかな時間で5千人もの英仏兵が死にました。
 
 
放たれる毒ガスの煙
 
それをきっかけにイギリス軍やフランス軍も毒ガスを使用し始め、ホスゲンなど新たな種類の毒ガスも開発されて、第一次大戦中に双方合わせて約10万人が毒ガス兵器で亡くなりました。
 
ちなみにドイツは、少量でも皮膚に着くと障害を起こし防毒マスクでは防げない新たな毒ガスを開発して、1917年7月に再びイーペルで使用し、2万人を死傷させる「戦果」をあげました。
そこでドイツはこのガスを、イーペルにちなんで「イペリット」と名づけたのです(イギリス軍では刺激臭から「マスタードガス」と呼ばれた)。
 
激しい苦しみを与え、たとえ命はとりとめても失明など重い後遺症が残る毒ガスの非人道性から、すでに1899年の第一回ハーグ万国平和会議で毒ガスの使用は禁じられていましたが、国際法としての拘束力はありませんでした。
 
そこで、第一次大戦後の1925年に、フランスの呼びかけで国際条約「ジュネーブ議定書」(正式名称:窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)が作成され、化学・生物兵器の使用が禁止されました。
ただし、この議定書では使用禁止を定めただけで、開発・製造・保有は制限されないという不十分なものでした。

また、136カ国が批准して議定書は1928年に発効しましたが、日本は署名をしただけで批准しませんでした。

 

まさにこの条約が発効した1928年から2年間ヨーロッパを訪れていた石井四郎は、国際条約で禁止するくらいだから生物化学兵器にはよほどの威力があると考え、日本の生物化学兵器開発の中心に自分がなろうと情報収集に務めたのです。
 
【731部隊の生物化学兵器開発】
このように、731部隊の任務の隠された本命は生物化学兵器、中でも石井四郎の専門が細菌学ということもあって、細菌兵器の開発が重点的におこなわれました。
 
ペスト菌をはじめ、炭疽菌やチフス菌などが人にどう感染し、どういう症状・過程で死に至らしめるか、またそれらをどう効率よく培養して兵器としてどう効果的に使用するかという研究が、「マルタ」を使った人体実験を繰り返しながらおこなわれたのです。
 
実戦に近い条件での人体実験には、平房から約260キロ離れた広大な安達(あんだ)特設実験場が用いられました。
 
731部隊の細菌戦の野外訓練
矢印がペスト菌の入ったビン
右の2人は冬期の細菌戦用戦闘服を着用
 
そうして731部隊が開発した細菌兵器の一つが、磁器製の「50型宇治式爆弾」でした。
 
 
 
この爆弾に、ペストに感染したネズミの血を吸わせたノミ(ペストノミ)を詰め、空中で爆発させて地上にばら撒くのです。
 
その際に、爆発でノミが死なないよう少量の火薬で破裂する磁器を容器に使い、またできるだけ細菌兵器使用の証拠が残らないよう(批准はしていないまでもジュネーブ議定書を前に、あからさまに細菌兵器を使うことははばかられた)にするなど、多くの工夫を重ねてこの爆弾が開発され、戦後に調査した米軍の担当官もその独創性に驚嘆したそうです(『続・悪魔の飽食』)。
 
こうして開発された細菌兵器は、常石敬一さんの『七三一部隊』によると、少なくとも4回、実験的に使用されたことがわかっています。
寧波(ニンポー/ねいは)では、爆弾ではなく穀物や綿にまぶしたペストノミを空から爆撃機で撒き、100人以上の住民がペストで亡くなりました。
 
 
寧波でのペスト(鼠疫)流行
を伝える中華民国の新聞(1940)
 
【731部隊の崩壊と逃亡】
1945(昭和20)年8月8日に対日宣戦布告したソ連軍が、9日には「ソ満国境」を超えて「満州」になだれ込んできました。
 
かつて70万の精鋭を誇った関東軍ですが、武器・兵士の多くが南方に送られ、そのころにはすっかり弱体化していました。
 
 
石井四郎は、1942年8月から北野政次軍医少将に代わっていた731部隊長に、1945年3月に復帰します。
それは、ソ連の対日参戦が不可避であり、そうなれば細菌兵器の本格的な実戦使用なしにはソ連軍に対抗できないと見て、大量増産の陣頭指揮にあたるためでした。
 
「日ソ開戦は必至の情勢……これより731の総力を挙げて細菌とノミ、ネズミの増産に突入する!」(石井部隊長の「増産訓示」)
 
「ペスト菌を中心に、井戸水や貯水池に投げこむチフス菌、コレラ菌、河や牧場を汚染する脾脱疽菌を、向こう2ヶ月間に大量生産せよ、と命令が下りてきたのが5月10日のことだった……細菌製造工場だったロ号棟1階勤務の柄沢班は増員され、24時間体制で生産に入った。」(元隊員の証言)
 
その結果、終戦直前の時点で、使用できる状態で保管された各種細菌は、「もし全部を理想的な方法でばらまけば、地球上の人類はことごとく死んでしまう」ほどの量に達していたと言います。
 
しかし、ソ連の進軍は予想以上の早さで、敗走を続ける日本軍は細菌戦をしかけるどころではありませんでした。
 
関東軍司令部からは8月10日に、731部隊は「独断専行」(自己判断)で撤収せよとの命令がありましたが、それを待たずに石井は部隊の飛行機を使って各地に飛び、撤収のための特別列車の手配などを進めていたようです。
 
石井の頭を占めていたのは二つのことでした。
一つは731部隊に蓄積された細菌兵器に関わる資料や人体実験で得られたデータ、菌株など最重要の成果を日本に持ち帰ること、もう一つは徹底した証拠隠滅です。
 
特に、731部隊で行われていたことが明るみに出ると、戦争犯罪に問われることは明らかだったため、痕跡を残さないために石井は非情に徹しました。
 
ハルビン郊外平房の本部(731部隊)のもとには、5つの支部(下図の赤下線)がありました。
 
 
8月10日に本部でおこなわれた撤収作戦会議で石井は、ソ連軍の進撃途上にある海拉爾、孫呉、林口、牡丹江の4支部については、徹底的に証拠隠滅をした後、隊員・家族ともども全員「自決」(自殺)させる、また同様に、本部撤収の際には「東郷村」(隊員宿舎)の家族は全員自決させるとの案を提示したそうです。
 
戦争指導者の常ですが、石井本人は縁故者・側近らを引き連れて真っ先に日本に逃げ帰るつもりでいたにもかかわらずです。
 
それを聞いて、細菌研究を担当する第1部の菊池斉部長(軍医少将)が激怒し、支部の有能な研究者には自決を押しつけず救出するのが先決、隊員の家族は部隊長が率先して内地(日本本土)に帰還させる努力を払うべきと主張し、石井も折れたようです。
 
石井は、関東軍司令部から731部隊の引き揚げ列車を優先通行させる許可を取り付け、8月11日に最初の列車が平房を出発しました。
 
この一番列車には、石井をはじめ特に秘密にすべき「マルタ」を担当していた石井の兄や同郷者を中心とする部隊長直属の特別班員とその家族(つまりは石井の身内)、そして日本に持ち帰る機密データ・資料が積まれていました。
 
特別班は列車の出発までに、残っていた「マルタ」数十人を毒ガスで殺害し、あわただしく遺体を焼却しましたが、燃えきらない遺体もそのまま埋めたために、犠牲者の手が土から出ていたりしたそうです。
 
撤退する途中で各貨車を回った石井は鬼の形相で、「日本は負けた。お前たちは今から内地に返す……だが731の秘密をどこまでも守り通してもらいたい。もし軍事機密をもらした者がいれば、この石井がどこまでもしゃべった人間を追いかけるぞ、いいな!」と大声で叫んだそうです。
 
731からの引き揚げ列車は15日まで続きました。
 
【ハバロフスク裁判の被告たち】
しかし、資料の処分や施設の爆破など最後まで証拠隠滅に従事し、遅れて列車に乗った隊員の中には、途中で列車が立ち往生するなどして、ソ連軍に捕まる者もありました。
 
そうして捕まった731関係者を含む12人の軍人が、1949年にハバロフスクで開かれた戦犯を裁く法廷(ハバロフスク裁判)に立たされ、証言をしています。
 
被告の最高位は、関東軍司令官の山田乙三陸軍大将、731部隊の関係者では、細菌製造を担当した第4部長の川島清軍医少将です。
 
この裁判での被告らの証言を記録した音声データが残っており、それと存命する当時の少年兵らへのインタビューや多くの資料をもとに、NHKが2017(平成29)年に「731部隊の真実 エリート医学者と人体実験」を制作・放送しています。
 
ハバロフスク裁判での12人の被告たち
 
この裁判では、事実関係についての客観的な検証が不十分という限界はありますが、日本に逃げ帰った元隊員たちが命じられるまま固く口を閉ざす中で、被告たちの証言は貴重な一次史料となります。
 
判決では、下級兵士2人には矯正労働収容所での2年と3年の刑、高官の10人には10年から25年の刑が言い渡されました。
 
そのうち、731部隊で細菌の製造を担当した第4部柄沢班の責任者・柄沢十三夫課長(軍医少佐)の次の言葉が小川の心に残っています。
 
証言する柄沢課長
 
「自分は現在、平凡な人間といたしまして、自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います。/私には現在日本に、82になります母と、妻ならびに2名の子どもがございます。……/なお私は、自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をして後悔をしております。/私は将来生まれ変わってもし余生がありましたならば、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております。」
 
病死した1人を除く他の長期受刑者たちが、1956(昭和31)年の日ソ国交回復に伴い刑期を満たすことなく帰国を許された中で、柄沢元課長(20年の刑)だけが帰国直前の1956年11月に所内で自ら命を絶ちました。
重すぎる罪を背負ったまま、母や妻子に何事もなかったかのように顔を合わせることが彼にはできなかったのでしょうか……。
 
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小川里菜の目

 

しかしその一方、日本に逃げ帰れた軍医たちの多くは、自らの罪に口を閉ざしたまま開業医や勤務医になったり、大学や研究機関に復帰して要職に就き、勲章をもらい、権威と仰がれました。

 

731部隊第一部(細菌研究)で凍傷研究を担当する吉村班を率いた吉村寿人は、先に見たように「マルタ」を故意に凍傷にする残忍な人体実験を繰り返しました。

 

 

常石敬一『七三一部隊』より

 

戦後そのことを追及されると吉村は、自分がした実験は被験者の「協力」を得たものだけだと否定し通し、京都府立医科大学の学長にまで出世したのです。

 

また、731で石井の片腕と言われた内藤良一(軍医中佐)は、1950(昭和25)年に「株式会社日本ブラッドバンク」を創業、731部隊長だった北野政次を顧問にするなど多くの731関係者を雇用しました。

1964(昭和39)年に製薬会社「ミドリ十字」となった同社は、1980年代にエイズウィルスに汚染された血液製剤を加熱処理せずに製造・流通させ、さらにその危険性が明らかになって加熱製剤が作られるようになった後も自社の非加熱製剤を回収せずに流通させました。

日本の血友病患者5千人の4割がエイズウィルスに感染し4百人余りが死亡したこの「薬害エイズ事件」の背後にも、731の人権意識の欠如や人体実験感覚を引き継いだミドリ十字社の体質があったのではないかという批判が寄せられました。

 

さらに、コロナウィルスのPCR検査を抑制したことで話題になった国立感染症研究所の前身である国立予防衛生研究所(1947年に厚生省が設立)にも731関係者が多数関わり、所長の多くを出しています(初代・小林六造、2代・小島三郎、5代・柳沢謙、6代・福見秀雄、7代・村田良介)。

 

731関係者がこのように戦後も大手を振って「活躍」できたのは、本来なら戦争犯罪として裁かれるべき罪が免責され闇に葬られたからです。

この事情については比較的よく知られていると思いますので、簡単に触れるにとどめます。

 

石井四郎は、狭義の「731部隊」だけでなく、生物化学兵器開発につながる巨大な研究ネットワークの中心人物でした。

石井は、一研究者としてよりも、非情(非人間)に徹することのできる強い意志を持つ組織者として有能な人物だったように思います。

 

そうしたことから帰国後の石井四郎は、戦犯追及を恐れてほとぼりが冷めるまでは表舞台に出ないように暮らしていました。

 

しかしソ連から、石井をはじめ731幹部を尋問し、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)にかけて処罰すべきとの要求があり、石井は1945年冬にアメリカ占領軍から呼び出しを受けます。

 

その時に石井が、自己保身のための取り引きで切り札にしたのが、平房から持ち帰った細菌戦に役立つ機密資料でした。

 

ソ連との来るべき対立に備えようとしていた米軍のマッカーサー司令官らは、731が蓄積した細菌戦に使えるデータをすべてアメリカに提供することと引き換えに石井らの免責を決め、ソ連には「石井四郎以下の所在は不明、731は戦犯に値しない」と伝えました。

 

こうして石井四郎と731部隊は歴史の闇に葬られ、関係者は何事もなかったかのように復権することができたのです。

 

三千人を超えるとも言われる人体実験の犠牲者の命と引き換えに得たデータを、石井らは自分たちの身の安全の取り引き材料にし、米軍は生物化学兵器の開発にそれらを利用したのです。

 

1948(昭和23)年に起きた、銀行員12人が毒殺された「帝銀事件」で、犯人が特殊な器具を用い毒物の扱いに手慣れていたことから、当初731関係者の関与を疑って捜査を進めていた警察が、急に画家の平沢貞通を容疑者として731関係者への捜査を打ち切ったのも、アメリカ占領下で彼らの追及をタブーにする大きな力が働いたのではないかと疑われます。

 

こうして無責任にも生き延びた731関係者が、戦後日本の医学界や医療行政で大きな力を振るったことに、暗たんたる思いを禁じえない小川です。

 

731部隊の撤収にあたっては、人体実験の証拠となる「マルタ」や中国人労働者は殺害し、需要書類は焼却炉で燃やし、解剖標本や実験器具などはハルビン市を流れる松花江に夜間に投棄し、最後に施設の主要な建物を工兵部隊が爆破しました。

その際、ネズミやペストノミなどが逃げ出したため、1945年の冬から翌年の春にかけて平房地区一帯をペストが襲い、住民が全滅する村も出たそうです。

 

最後に、このような歴史的事件の新たな発掘では、史料を誤って解釈・利用するといった問題が発生しがちです。

 

『続・悪魔の飽食』の冒頭に、森村さんが人体実験の犠牲者だとして掲載した写真の多くが、20年以上前のペスト流行時の写真集のものだという指摘が、その本を入手した会社員の方からなされました。

それを受けて森村さんは、写真集の存在を知らぬまま731関係者から提供された写真を誤って用いたと認め謝罪し、その後の版で写真は削除されました。

 

それを報じる日本経済新聞の切り抜きを、小川の祖父が本に挟んでいました。

 

 

誤りを率直に認めて謝罪し訂正するのは、過ちを犯すことが避けられない人間にとって必要不可欠な態度ですが、その存在自体が闇に葬られた731部隊の誤りについては、それを公式に正す機会自体が失われたため、その負の遺産は戦後の日本においても隠然と残り続けたのです。

 

参照資料

・森村誠一『悪魔の飽食』三部作(現在は角川文庫)

・常石敬一『七三一部隊』講談社現代新書、1995

・731部隊を取り上げた新聞記事

・青山貞一・池田こみち「731部隊(関東軍防疫給水部本部)」E-WAVE TOKYO、2017

・島崎晋「731部隊の闇…日本社会がどうしても隠したい「残酷すぎる過去」」現代ビジネス、2020.2.27

・現代ビジネス編集部「731部隊の元少年兵が激白…「残虐な人体実験が我々の日常だった」」現代ビジネス、2020.8.15

・土屋貴志「戦時下における医学研究倫理ー戦争は倫理を転倒させるのか」企画シンポジウム1「戦争と研究倫理」報告

・刈田啓史郎「凍傷実験とある学長の系譜」『月刊保団連』No.758、2002.8

・本橋信宏「731部隊の残党が関与した実話雑誌「政界ジープ」」『昭和の謎99 何も知らない日本人』2022年初夏の号、大洋図書