滋賀県野洲町
中学同級生殺傷事件
1978(昭和53)年
 

 
このブログではこれまでに、いじめへの仕返しとして起きた二つの事件を取り上げました。
 
一つは、1991(平成3)年1月に佐賀で起きた同窓会大量殺人未遂事件であり、

 

 

もう一つは、1984(昭和59)年11月に大阪で起きた高1男子仕返し殺人事件です。
 

 

前者は実行直前に発覚して未遂に終わりましたが、後者はいじめにあっていた2人の生徒が、せっぱつまっていじめ加害者の同級生をハンマーでめった打ちにして殺害するという凄惨な結末となった事件です
 
他にも、「いじめ復讐」としてネットではたくさんの事件をリストアップしたサイトが複数あり、その数の多さに驚かされます。
 
今回取り上げるのは、1978(昭和53)年に滋賀県野洲(やす)郡野洲町(現在は野洲市)で、中学生のグループ内でのいじめに絡んで起きた殺傷事件です。
 
 
朝日新聞(1978年2月13日)
 
未成年の中学生が引き起こした事件のため、被害者の名前は報道されていますが、加害者となった2人の名前は明かされておらず、このブログでもA、Bと表記します。
 
最初に整理しておくと、彼らはいずれも野洲町立野洲中学校3年生の6人グループです。
内訳は、腕力が強くリーダー格の佐々木敏明君(15歳)を中心に、袋本将史君(15歳)、船越隆志君(15歳)、亡くなった谷口正美君(15歳)の4人、そしてメンバーでありながら彼らから暴力を振るわれていたいじめの被害者でこの事件の加害者であるA(14歳)とB(15歳)の合わせて6人です。
 
この事件では、殺傷の被害者がいじめの加害者(逆にいじめの被害者が殺傷の加害者)という二重の関係にあることも考えて、以下では名前の敬称(君)は原則として省略して記述します。
 
当時の野洲中学校
 
犯行現場となったのは、グループの溜まり場でよく彼らが泊まり込んで飲酒や喫煙、麻雀などをしていた船越の自宅2階でした。
 
『週刊朝日』1978年3月3日号
 
事件が起きたのは、1978(昭和53)年2月12日の午前5時40分ごろです。
 
前夜から船越宅に泊まっていた6人のうち、用意していた包丁を手にしたAとBが、明かりの消えた室内で、ホームコタツとベッドで熟睡していた4人を殺害しようと首や顔、胸や腹、背中を次々と刺し、また途中で手に持った包丁を落としたことから、船越には部屋にあった木刀で何度も殴打しました。
 
朝日新聞(1978年2月13日)
 
その結果、谷口君は運ばれる救急車の中で失血死し、袋本と船越も全治1ヶ月の重傷を負いましたが、A、Bが殺害の主目標にしていたリーダー格の佐々木だけは2人の手元がくるって無傷のままでした。
 
またB自身も持った包丁の刃で手に大ケガを負い、また佐々木が無傷なことを知った2人は逃げることを諦め、外部からの侵入者に襲われたと言って被害者を装っていました。
 
しかし、警察での事情聴取で、ABのケガの程度や供述内容の食い違いを捜査員に突かれると、相次いで犯行を自供したのです。
 
このグループは、「校内随一の腕力者」(家裁決定文)である佐々木を中心に、彼と小学校が同じ船越・袋本、そして中学で彼と同じクラスになった谷口で構成されていましたが、中学3年の夏ごろにAとBが遅れて加わりました。
AとBは、佐々木らとは別の小学校出身で、そのころから親しい友人でした。
 
彼らは学校の成績も振るわず、船越宅を溜まり場に飲酒・喫煙・麻雀・万引きなどをしていた非行グループと見られますが、AとBに対して佐々木らは、それまで「最下層」だった谷口に代わって子分のように扱うようになります。
 
大津家裁のAに対する処分の決定文には、彼らがグループ内でどのような扱いを受けていたかについて、次のように書かれています。
 
「殊に同グループのリーダー格である佐々木は、Aに対し登校時には迎えに来させ、便所に随伴させ、煙草の購入を命令し、万引きさせた盗品の分前を与えず、授業中に背後の席から足を蹴って話しかけ、同人の意に従わねば暴力を振う等の侮蔑的態度に出ていた。」
 
ABに対する暴力行為には、他の3人も加わっていました。
 
Aはこうした仕打ちに憤まんを募らせながらも交遊を続けていましたが、1978年1月から3学期に入ると高校進学のための受験勉強も気になり、グループと距離をおこうとし始めます。
 
ところが、そうしたAの態度を察知した佐々木の嫌がらせが激しくなったため、1月下旬にAは同じ立場にあった友人のBに憤まんを吐露して佐々木への殺意を漏らしたところ、Bもすぐに賛成したので、そのころから2人は何度も会って殺害計画を相談するようになります。
ただ、中学生が考えることでもあり、計画を綿密に練り上げるには至りませんでした。
 
当初は、中学を卒業してから佐々木の殺害を実行するつもりだったABでしたが、彼らの暴力行為が続いたため、2月9日にAは「卒業まで辛抱できない」とBに話し、2月11日の昼間に2人は包丁2丁をスーパーで万引き(Bは購入したと主張)して準備します。
 
その日、たまたま駅前で2人に出くわした佐々木らは、Aの服装をからかい足蹴りにしてズボンに泥をつけています。
 
朝日新聞(1978年2月13日夕刊)
 
11日の夜8時ごろ、佐々木からAにタバコを船越宅に持ってくるよう命じる電話が入ります。
この夜グループが船越宅に集まることを知ったAは、日が変わった12日の午前1時ごろにB宅を訪れて電話があったことを話し、「1人やるのも4人やるのも同じだから、今夜決行して皆殺しにしよう」と持ちかけ、Bも賛同します。
 
朝日新聞(1978年2月14日)
 
そこで2人は、凶器の包丁とかねて用意していた返り血を浴びた時のための着替えを持って船越宅付近まで行き様子をうかがっていましたが、犬に吠えられて佐々木らに見つかり、慌てて包丁などを竹垣に隠しました。
この時もまた「来るのが遅い」とAは佐々木らから殴られています。
 
その後、犯行現場となる部屋に入った6人は、しばらく雑談をしてから就寝しました。
 
午前5時40分ごろになって佐々木らが寝静まったのを確認したBは、隠していた包丁などを取りに行き、それを手にした2人が先に見たように寝ている4人に次々と襲いかかったのです。
 
特に、最初に襲われた谷口君(薄暗い中で佐々木と間違えられた可能性あり)はまず首を切られた上にめった刺しにされたことから、最も深手を負って出血多量で亡くなりました。
一方、ABが当初殺害のターゲットにしていた佐々木は、襲われはしましたがただひとり無傷のまま助かりました。
 
殺傷を主導したAは、殺人と同未遂で送検され、大津家裁は彼に対して医療少年院への送致を決めています。
 
さらに手に大ケガをして入院していたBも、退院を待って殺人と同未遂の共犯として逮捕されました。
 
朝日新聞(1978年2月21日)
 
また被害者である佐々木に対しても事情聴取を続けていた滋賀県警捜査本部は、Aの供述どおり「被害者」の4人がABに暴行を加えていた事実を認め、死亡した谷口を含む4人を暴行の「加害者」として書類送検することを決めました。
 
朝日新聞(1978年2月17日)
 
朝日新聞(1978年3月30日)
 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

以上、事件の概要を、新聞記事と大津家裁の決定文を素材にまとめてみました。

 

この事件が報じられると、殺傷の加害者であるABの方が被害者たちによるいじめ・リンチの犠牲者であって、被害者とりわけリーダー格だった佐々木はとんでもないワルだという見方が世間に広がり、野洲中学校にもこのような「非行グループ」を放置していた責任を問う抗議が多く寄せられたそうです。

 

そうした見方に対して一石を投じる報道をしたのが、『週刊朝日』1978年3月3日号に掲載された「徹底ルポ 平凡な中学生が殺人に暴走する不気味な軌跡」と題する記事です。

 

 
この記事では、殺傷事件の被害者側でありながら、その原因と見られるいじめ加害の中心人物として批判の矢面に立たされた佐々木敏明の言い分を、直接のインタビューによって伝えています。
 
 
佐々木は、ABに暴力を振るったことは認めながら、それは約束の時間に遅れるなどの「わけ」があってのことで、そのほかには関西のノリでよくある「アホか!」と言いながら「頭をはる」ような行為で、伝えられる「殴る蹴るの乱暴を重ねていた」ことはないと言います。
 
4人の子分のようにABが扱われていたことについても、気が弱く「根性がない」2人はグループ内で「ボケ」を演じる役回り、つまり「いじられ役」だったと言うのです。
しかしそれを屈辱と感じていたABは、「根性を見せたる」と4人を襲ったのだと……。
 
 
記者は、「いじめ加害者」の言い分を一方的に信じて伝えているのではなく、彼らと接触のあった教師や生徒にも広く取材したところ、リンチや恐喝の事実は出てこなかったとし、「やんちゃな連中ではありましたが、しかし、総じて見ればいい子で、ごく普通の中学生でした」という堀井校長の言葉に「ウソはない」と書いています。
 
小川もそれは否定しませんが、同じ事実であっても、加害と被害という見る立場の違いによってまったく異なる受けとめ方がありうるわけですから、佐々木ら4人の「つもり」がウソではないとしても、4人を殺害しようとまで追い込まれたAB2人の耐え難い「苦しさ」や「悔しさ」がそれによって否定されるわけでは決してありません。
 
ABは、佐々木らによる侮蔑的な扱いの被害者であったことに加え、同級生を殺傷した「犯罪者」にまで追い込まれる「二重の被害」を受けたと、まずは捉えるべきではないでしょうか。
 
ただ、こうした事件が起きるとマスコミや世論では、「悪玉」と「善玉」という分かりやすい構図に関係者を二分し、出来事を単純に解釈して、「悪玉」とされた人間たちを「鬼畜」のように糾弾すれば事が片付いたかのように考えるパターンがよく見られます。
 
しかし、未熟な中学生が作る集団の論理や、彼らの思考と行動は、大人が考える以上に複雑で矛盾に満ちたものであるかもしれません。
 
その意味で、内容に疑問な点がないとは言えない『週刊朝日』の記事も、単純な善悪二元論的見方に一石を投じたものとして評価できるのではないかと小川は思い、紹介しました。
 
こうした悲劇を二度と起こさないためには、どういう要因がからみ合って問題が起きたのか、複雑な現実を分かりやすく単純化してしまうのではなく、複雑さのままに理解しようと努め、そこから何かを学んで私たちの共有する知恵を少しでも豊かにしていかなければならないのではないか、と小川は思うのです。
 
そうでないと、失われた犠牲者の命は、一時の騒動が過ぎると、ただ忘れ去られるだけに終わってしまうと思うからです🥺
 
参照資料
・朝日新聞の関連記事と『週刊朝日』の記事
・大津家庭裁判所 Aの処分についての判決文

 

 

神戸高塚高校を訪れた帰りに、この事件の記事を取りに図書館によりました📖

 

 

読んでくださった方、ありがとうございました🤗

これからも仕事の合間に書いていきますので、宜しくお願いいたします✨