第二弾
昭和に起きた
いじめを苦に自殺した
子どもたち
前回のブログでは、学校でのいじめが大きく社会問題化するきっかけになった1986(昭和61)年の鹿川裕史君のいじめ自殺事件と、それに先立つ1985(昭和60)年に起きたいじめを苦にした自殺事件を3件(関連して触れたものを入れると4件)取り上げて紹介しました。
1985年には、その他にもいじめ自殺事件が起きています。
下のリストは、「教育資料庫・いじめ事件関連年表」「昭和のいじめ事件簿」そして雑誌記事の情報を合わせたものです。そのうち赤字の事件が前回取り上げたものです。
(1)1月21日 岩手県岩手郡の自宅ふろ場で、中学2年生(14)がガスホースをくわえて自殺した。家族はいじめが原因と訴えるが、学校は否定。
(2)1月21日 茨城県水戸市の笠原中学2年の女子生徒が、グループの女子からいじめを受け電柱で首吊り自殺。
(3)2月6日 大阪府堺市立中百舌鳥中学校1年の女子生徒が、いじめを苦にしているとするメモを残し、堺市内の府営住宅高層階踊り場から飛び降り重体になり、のちに死亡。
(4)2月7日 静岡県伊東市で小6女子が仲間はずれのいじめを受け、山林で首吊り自殺。
(5)2月12日 和歌山県で大成中学2年男子が集団で暴力を振るわれたあと、自宅の納屋で首吊り自殺。
(6)3月10日 香川県で中2男子、いじめ苦に自殺。
(7)3月11日 茨城県で中3、いじめ苦に自殺。
(8)5月4日 東京都大田区立羽田中学3年女子が、いじめが原因と見られる飛び降り自殺。
(9)9月24日 いわき市の小川中学3年男子が、2年半ものいじめを受けた末に首吊り自殺。
(10)10月14日 群馬県富士見村立(現・前橋市立)富士見中学校2年の男子生徒が、所属するバスケットボール部内でのいじめを苦に服毒自殺図り重体になり、8日後に死亡。
(11)11月20日 大阪府でいじめを苦に女子高校生が自殺。
(12)11月20日 東京都大田区立羽田中学2年女子が、いじめられ脅されて飛び降り自殺。
(13)12月9日 青森県上北郡で、中学2年生(14)が首吊り自殺。同級生や卒業生らに半年間も殴る蹴るの暴行を受け、金を脅し取られたりといじめられて、12月6日には警察にも相談していた。遺書にはいじめた5人の名前が書かれていた。この学校では校内暴力が続発し、いじめが原因の自殺も相次いでいた。
(14)12月9日 千葉県富津市の雑木林で、中学3年生(15)が首吊り自殺。同級生から連日のように「バカ」といういたずら電話が掛かってきており、ノートに「電話電話」といくつも書き残していた。
全部で14件もありますが、これでも実際に起きたいじめ自殺の一部だと思われます。
というのも、たとえ子どもがいじめを苦にして自殺しても、遺書があったりはっきりとした目撃証言がなければ、いじめが原因となかなか認められないからです。
そこには、不祥事を隠蔽しがちな学校や教育委員会の姿勢も影響しています。
また、各事件の詳細を知ろうとしても、雑誌等で取り上げられたもの以外はネット検索では分らないものがほとんどです。
警察庁による統計では、1985年の19歳以下の自殺者数は557人ですが、その中には闇に葬られてしまったいじめ自殺が、リスト以外に埋もれているのではないでしょうか。
今回は、前回取り上げられなかった事件をさらに2件、まず見ておこうと思います。
①和歌山・中2男子首吊り自殺事件
※上のリストの⑸
瀬戸裕幸君
大成中学校
1985年2月12日、和歌山県日高川町学校組合立大成中学2年の瀬戸裕幸君(当時14歳)が、自宅の納屋で首を吊って自殺しました。
裕幸君が首を吊った納屋と内部
(『Emma』1985年12月10日号)
和歌山県御坊市の瀬戸家は、元は酒造業を営み、江戸時代には大庄屋を務めた地元の旧家で、瀬戸家住宅は国登録有形文化財になっているほどです。
瀬戸家住宅(主屋)
『Emma』の記事によると、2月12日の始業前、同級生A、B、Cの家に4日前に届いた裏面が黒枠だけで差出人のないハガキが、筆跡から瀬戸裕幸君の出したものではないかと、同じクラスのAとBが厳しく詰問したそうです。
「お前に決まっとる」「俺はやっとらん」と押し問答をしているうちに始業のベルが鳴って一時中断しましたが、1限目の休み時間になって裕幸君がハガキを出したことを認めると、AとBはいきなり彼の顔面を何発も殴りました。
3限目の休み時間になると、隣のクラスのCもやってきて殴りつけましたが、さらに関係のない生徒まで裕幸くんの胸ぐらをつかんでなじったり、ついには他クラスの生徒も含めて40人近くが彼を取り囲んだそうです。
裕幸君が暴行を受けた2年1組の教室
「もっとやれ!」と煽るものも、黙ってみている者もいましたが、ケンカが強いAらを恐れてか、彼を助けようとする生徒は一人もいませんでした。
当時、大成中学には給食がなかったので、自宅が近い生徒は家に食べに帰る者も少なくなく、裕幸君も家に帰ろうとしましたが、彼に対してAらは「昼食を食ってきたら、また殴ってやる!」と怒鳴ったそうです。
家に戻った裕幸君は、用意されていた昼食には手もつけず、納屋に入って自殺してしまいました。
同級生の一人は雑誌の取材に裕幸君のことを「オジン臭くて、ナヨナヨしてる」と言っていますが、運動が苦手でおとなしかった裕幸君には親しい友人もいなかったようです。
彼がAらになぜ匿名で黒縁のハガキを出したのかは分かりません。
保育園時代には裕幸君とAは友だちでしたが、趣味も性格もまったく違うために、社交的でスポーツマンのAが裕幸君を避ける形で一緒に遊ばなくなりました。
保育園時代の裕幸君
けれども裕幸君の方は、一人ぼっちになりたくなかったのか、何かとAの側に寄って行こうとしたため、Aからは煩わしく思われていたそうです。
2年生になった4月のクラス集合写真(部分)
担任教諭の後ろ最上段が瀬戸裕幸君
詳しい事情が分からないので断定はできませんが、この事件は、友人関係の行き違いから裕幸君とAらの双方が蓄積させていた不満やいらだちを、嫌がらせハガキの形で裕幸君が発散させたのをきっかけに、Aらも感情を爆発させて一方的に執拗な暴力(彼らの意識としては「制裁」?)を振るったもののようで、それまでにAらが何かと側に寄ってくる裕幸君を避ける以上のいじめをしていたわけではなさそうです(「避ける」程度によっては「無視」といういじめ行為に該当する可能性はありますが)。
ですからこの事件は、中学生の人間関係の未熟さが引き起こした悲劇のように思えますが、40人もの生徒に取り囲まれて暴力を振るわれた裕幸君の恐怖心が、思い詰めて突発的に死を選ぶほど大きなものだったのは間違いないでしょう。
いじめでは、直接の当事者よりもむしろ周りの傍観者の存在が事態が悪化するかどうかの鍵をにぎっているとして問題にされます。
ただ、同調圧力の強い日本の社会で「場の空気」に逆らって声を上げるのは、大人でも大変な勇気が必要でしょう。
また、前のブログで書いたように、ピア・プレッシャー(仲間からの圧力)という集団心理の力学も、同級生たちが見ている前でAらが「中途半端」には暴行をやめられなかった背景に働いていたかもしれません。
『Emma』の記事は最後に、「黙って見ていた40人全員も間接的な加害者なのだ。彼を見捨て、自殺に追いやった40人は決してそのことを忘れてはならない」と書いています。
正論だとは思いますが、しかし、そのように上から目線で正義の裁きを下すような報じ方では、読者も「本当に、なんてひどい生徒たちだ!」と他人事として憤るだけで終わらないでしょうか。
大人も含めて自分自身にもっと引きつけていじめの問題を考えないといけないのではないかと小川は思います。
事件後に、二度と悲劇が起きないように
と建てられた「友情」の碑
そして裕幸君の墓
②群馬・中2男子農薬服毒自殺事件
※上のリストの⑽
樺沢 崇君
1985(昭和60)年10月14日、群馬県勢多郡富士見村の村立富士見中学2年、樺沢崇(かばさわ・たかし)君(当時14歳)が、自宅自室のベッドで腹痛でのたうち回り苦しんでいるのを、「無断欠席」しているという学校からの連絡で急ぎ帰宅した父親の清身さん(同42歳)が見つけました。
富士見村立富士見中学校
崇君の自宅
(写真はいずれも『Emma』1985年12月10日号)
父親によると、病院に担ぎ込まれた崇君は、「口や喉がただれ、叫ぶたびに口から血が流れる」ような状態だったそうです。
通学に使っている自転車やヘルメット、カバンがないのを不審に思った清身さんがそれらを探しに行ったところ、通学路から外れた山林の木の切り株の側に、ノートの切れ端に書かれた遺書とパラコートという農薬の空き瓶、そして嘔吐した跡が見つかり、崇君が農薬で服毒自殺を図ったことが分かりました。
服毒した現場
パラコートを含有した除草剤は、1965年の発売以来多数の中毒者を出してきた毒性の強い農薬で、崇君は致死量の4〜5倍もの量をビンから直接飲んだと見られます。
それでも若さもあって崇君は服毒後8日間も死と闘い、一時は容態が改善して両親と話をすることもできましたが、ついには危篤状態となり、22日に亡くなりました。
崇君が残した遺書には、3人の友人の名前と「天国でもずっと恨んでやる」という走り書きがありました。
父親は、息子がこの3人からいじめを受けていたことを知っていましたが、もう仲直りをしたと思っていたそうです。
学校や警察の調べで、バスケットボール部の部活動をめぐるいじめがあったことが判明しました。
7月下旬に、崇君が練習に30分遅れたことで足を蹴られたのが始まりだったそうです。
バスケットボール部の崇君(前列の右端)
翌日、練習を休んだ崇君を父親が問い詰めて暴行を受けたことを知り、部員の一人に電話をして暴力をやめて練習に誘ってくれるよう頼みました。
けれども崇君への暴行はやまず、自殺する直前まで続いたそうです。
部活の練習にからんで始まった暴力も、放課後に体育館裏に連れ出して殴ったり3対1での「プロレスごっこ」を強要するなど、暴行自体を楽しむかのようないじめになり、それも跡が見えやすい顔や頭は殴らないなど巧妙なものでした。
それでも隆君は、心配をかけまいとしたのか親にはそのことをいっさい話しませんでした。
10月1日に崇君が部活を辞めたいと言い出して初めて、父親はいじめが続いていることを察し、部員宅に再び電話をしたそうですが、親に「告げ口」をしたと受け止めたいじめグループは、崇君をトイレや体育館裏で3回に渡って暴行しました。
それが自殺の直接のきっかけになったようです。
「目の届かないところでいじめが行われていたので(気づかなかった)」という福本長治平校長の釈明に納得できない清身さんは、学校に乗り込んで「誰を恨もうとも思わない。ただ、崇に一体何があったのか教えてほしい。二度とこんな事件を起こさないため、皆で考えたいのだ」と、全校生徒と教職員の前で呼びかけを行ったそうです。
いじめに気づかなかったと
釈明する藤本校長
父親の呼びかけに応えて、生徒や保護者、教職員から351通もの手紙が寄せられました。
手紙には、学校が知らなかったはずはないと疑問を投げかけたり、崇君のことは自分も知っていたが言えなかったと反省する内容などが書かれていたそうです。
一方、遺書で名前をあげられた3人は他の生徒から「人殺し!」とののしられたり、自宅に「農薬を飲んで家族全員死ね」といった脅迫電話がかけられたりしたといいます。
しかし、そうした復讐の感情を一時的に爆発させただけで事件を終わらせたのでは、崇君の無念の死は何も生まないまま時と共に虚しく消え去ってしまいます。
「恨みではなく、真相を明らかにして、二度とこんな事件が起きないよう皆で考えたい」という両親の切実な訴えかけを、私たちはどう受けとめればよいのでしょうか。
両親(清身さん/照子さん)と赤ん坊の崇君
小学6年の崇君、このわずか2年後に
自ら命を断つことになるとは……
以前にこのブログでは、1991(平成3)年1月に佐賀県で起きた「いじめ復讐 同窓会大量殺人未遂事件」を取り上げました。
中学時代にいじめを受けた被害者が、それから10年余りも復讐だけを考えて準備をし、卒業後初めての同窓会の世話役となって当時のクラスメイトと教師を集め、ヒ素入ビールと手製爆弾で皆殺しにしようとした事件です。
幸い母親が気づいて計画は未遂に終わりましたが、もし実行されていたらいじめ被害者が今度は大量殺人の加害者となるところでした。
いじめ被害者の苦しみや一生続く傷の痛み、加害者への消えることない恨み憎しみは、実際に経験した人にしか分らないものだと思います。
しかしそれは、被害者が今度は加害者となり、自分をいじめた相手を痛めつけ返すことで本当に癒やされるものなのでしょうか。
そこで最後に、いじめの暴力に復讐の暴力で応じたことがさらに大きな悲劇を生んだ、1984年に大阪で起きたいじめ仕返し殺人事件を振り返ってみようと思います。
大阪・高1男子仕返し殺人事件
1984(昭和59)年11月2日の午前7時すぎ、大阪の桜の名所として知られる桜之宮公園で、犬の散歩をしていた近所の女性が大きな血だまりとそこから続く血の跡、そして血に染まった白いTシャツとベルトなどを見つけ警察に通報しました。
桜の季節と事件当時の桜之宮公園
警察官が付近一帯を捜索したところ、昼過ぎになって公園が面している大川の川底に沈んでいる、パンツと靴下だけの遺体が発見されました。
死因は溺死でしたが、遺体の頭部には74ヶ所もの打撲傷があり、左目も凶器によって無惨にえぐられていました。
被害者は、大阪産業大学高校(現・大阪産業大学附属高校)1年の蒲澤嘉明(かまさわ・よしあき)君(当時16歳)で、前日の夕方に外出したまま行方不明になっていました。
蒲澤嘉明君
9日後の11月12日になって警察は、嘉明君と同じクラスで机を並べるA君とB君(いずれも当時15歳)を犯人として逮捕しました(この事件では殺人といじめで被害者と加害者が入れ替わっているため、このブログでは基本的に3人とも「君」とつけています)。
嘉明君は、中学校でも生徒会長をつとめ、高校に入ってからもクラスの学級委員長を任せられている「優等生」でした。
中学の体育大会で
生徒会長として旗手を務めた嘉明君
身体も172センチ/93キロと大きく、黒帯(有段者)の柔道部員であった嘉明君は、将来警察官になりたいと希望していたそうです。
3人は最初は仲の良い友だちとして付き合っていましたが、2学期に入るころから嘉明君がAB2人を執拗にいじめるようになります。
そのいじめ方は、単に殴る蹴るの暴力を加えるだけではありません。
ABに、女性教師が担当する科目を含めて授業中に性器を出して自慰をさせたり、教室で騒ぎを起こすように命じておいてから、学級委員長として「お前ら、何やってるんだ!」と怒鳴りつけてやめさせるという、陰湿で巧妙な「ヤラセ」芝居もさせていました。
そうしたことから嘉明君は、頼もしいクラスのまとめ役として担任ら教師たちや事情を知らない生徒から絶大な信頼と評価を得ていたそうです。
クラスのまとめ役を
巧みに演じていた嘉明君
嘉明君はさらに、ABの顔をマジックインキで真っ赤に塗りつぶし、教師に見とがめられると「ゲームに負けたから」と言わせたり、ビール2リットルにワンカップの日本酒3本を無理やり飲ませて吐くのを面白がったり、道ゆく女性に卑猥な言動をさせたり、いわゆる「大人のおもちゃ」を買いに行かせたりと陵辱の限りを尽くしました。
嘉明君がABに対しておこなっていたいじめは、通常の身体的・精神的な苦痛だけでなく、人としての尊厳を傷つけ耐えがたい恥辱を強いる悪質なものだったのです。
耐えきれなくなった二人は、意を決して何人もの教師にいじめ被害を訴えたそうですが、「蒲澤がそんなことをするはずがないだろう!」と、誰からも取り合ってもらえなかったそうです。
誰も助けてくれないのなら、この「いじめ地獄」から解放されるには、自分たちの手で嘉明君を殺すしかないと決意した二人は、学校の創立記念日で休みだった11月1日、カナヅチを隠し持って嘉明君を遊びに誘い出しました。
「自転車を盗んで来い」と命令された二人は盗んで来ますが、「あそこならもっと良い自転車がある」と言って嘉明君を桜之宮公園に連れて行きます。
人気(ひとけ)のないのを見計らって、盗ませた自転車に乗って先を行く嘉明君の後頭部を、カナヅチを取り出したA君らがいきなり殴りつけ、倒れた嘉明君の頭がつぶれるまで、無我夢中で70回以上も殴り続けたのです。
憎しみのあまりというより、とことんやらないと逆にやられてしまうという恐怖の方が大きかったのではないでしょうか。
けれどもその後の行動は、ABの積もり積もった憎しみのすさまじさを物語っています。
彼らは、カナヅチの尖った方で嘉明君の左目をえぐり出し、パンツと靴下以外の衣服をはぎ取って大川に投げ込み、溺死させたのです。
16歳未満で刑事処分が課せられない二人は、家庭裁判所の決定により中等少年院に送られました。
嘉明君がAB二人にした卑劣ないじめは、人としての自尊心を根底から傷つける悪質なもので、弁解の余地はありません。
いじめの被害者であったA君とB君は、悪夢のようないじめから解放されたいとの一心で嘉明君をカナヅチで殴打したのでしょう。
しかしそのために二人は、いじめの被害に加えて殺人という加害の記憶を一生背負って生きていかねばならなくなったのです。
そこへと追い詰めたのは、間違いなく彼らの訴えに耳を貸さなかった学校・教師の不可解な対応です。
授業中の教室で生徒が自慰行為をしたり突然騒いだりという異様な事態が起きていながら教師がそれに気づきもせず、行為の当事者がいじめられてやったと訴えても話を聞こうとすらしないのは、いくら嘉明君が優等生を演じていたとしても理解できないことです。
挙げ句の果てに被害生徒が加害生徒を殺すという悲惨な事件が起きて、やっと学校は嘉明君が行っていたいじめの数々を報告書にまとめたそうですが、それでも「いじめについては気づかなかった」「高校には過失はない」と学校は責任を否定し続けたそうです。
大阪産業大学高校(現・附属高校)
結局、嘉明君一人を悪者にして学校は逃げた形ですが、しかし嘉明君自身は根っからの悪人だったのでしょうか。
『Emma』の記事は、母親の話から6月ごろに柔道部で嘉明君の柔道着がボロボロにされるほどのしごきがあり、そのために好きだった柔道を続けていけそうにないという挫折感から彼の心が荒(すさ)んで、元は「仲良しトリオ」だったABへのいじめが始まったことを示唆しています。
事実、嘉明君の自宅には、日付以外は記入済みの柔道部の退部届が未提出のまま残されていました。
しかしこれについても学校は、嘉明君はすでに柔道部を退部していた(のでいじめとは関係がない)との説明に終始したそうです。
本人が亡くなった今となっては、学校側がこうした姿勢でいる限り、これ以上真相を明らかにすることは困難です。
いじめの被害者が、またいじめで子どもを亡くした遺族が、その痛み・悲しみ・恨みを晴らしたいと思う気持ちはよく分かりますし、加害者には罪に見合った罰を与えて償わせることが当然に必要です。
しかしそれでも、いじめの記憶は消えることはないでしょうし、命を落とした子どもが生き返ってくることもありません。
そう考えた時、いじめを苦にして自殺した樺沢崇君の父親・清身さんの「誰を恨もうとも思わない。ただ、一体何があったのか教えてほしい。二度とこんな事件を起こさないため、皆で考えたいのだ」という一時の感情を超えて訴える声が、小川の心の奥深くに繰り返し響いてくるのです。