空海を訪ねてシリーズ2023晩夏編のラストは悠久の時間を越えて明日香の地にあるお寺。

真言宗豊山派川原寺跡弘福寺。

空海が東寺と高野山の行き来の途中で休憩する宿舎として使用したというお寺。





川原寺の名は空海関連書にもあまり現れない。

ド定番の司馬遼太郎著『空海の風景』には、伊予親王が幽閉された場所として記されているが、空海との直接的な関係は触れられていない。


私が川原寺の存在を認識して「ここに行ってみよう」と思ったのは、『空海大字林』の編者である、書の研究家飯島太千雄先生のご著書『空海入唐 虚しく往きて実ちて帰らん』に川原寺が紹介されていたのを読んでからである。

空海入門書としてバイブル的存在である『沙門空海』をみると、『御遺告』の第三条に「弘福寺」の名がみられ、『年譜』によれば天長元年(824年)7月に、淳和天皇が空海の京都・高野山の往還の途中の休息所として与えたという伝えを載せている、とのこと。


かつては、大安寺・飛鳥寺とともに奈良三大寺といわれていたが、現在はかつて敷地だったであろう草っ原の真ん中にお寺がこじんまりと佇む。


天武天皇の時代に一切経の写経を行ったところだそうだ。
当時の川原寺の伽藍配置は珍しい『1塔2金堂式』という珍しいもの。
草っ原の中に当時の礎石が復元されていた。
ちょっと見づらいが、案内板。


天武天皇の頃の瑪瑙の礎石も残っていて手で触れることができる。


お寺の方がとても親切に説明してくださった。

弘法大師のスゴいファンなんです、と伝えると、12月に弘法大師お誕生1250年の記念講演がありますからぜひお越しください、とおっしゃった。


写真はパンフレットから。

弘法大師作と伝えられる多聞天さまと自国天さまがご本堂をお守りされていた。


1200年前に空海がお泊まりになったのはこの辺りか。



道路を挟んで弘福寺の真向かいにあるのが、聖徳太子の橘寺。




さすが明日香は古いお寺が多い。

空海も川原寺に来た際に訪れているはずだ。


飛鳥時代の石造物の二面石。


阿字池。


往生院の天井には260点のお花が描かれている。

写経場として用いられているそうだ。





最後は飛鳥寺。



飛鳥大仏撮影OKだった!

聖徳太子と蘇我馬子が鞍作鳥に造らせたという日本最古の仏像。

重要文化財であるのは度重なる火災のため補修箇所が多いためらしい。

お顔は当初の面影を残し聖徳太子にも似てらっしゃるかも知れない。


飛鳥寺は真言宗豊山派のお寺。

大仏さまの両側には両界曼荼羅があった。

弘法大師像もあった。


飛鳥といえば万葉。

私は昨年度1年間に渡りNHKラジオの古典講読「歌と歴史でたどる『万葉集』」で勉強した。

万葉集は空海より前の時代のものであり、万葉仮名ではあるが日本語で詠まれたものだ。

不思議というべきか、空海は漢詩しか詠んでいない。(私の知る限り。)

当時最高の知識人、教養人であった空海は万葉集読んでないのか?

和歌を詠もうとは思わなかったのか?

あんなに漢籍には詳しい、詳しすぎるのに、日本の文学には興味なかったのかなぁ。

万葉集が当時文学というほどのものではなかったのか、文学を含め当時の教養が中国寄り、というか、ほとんど中国だったのだろうな。

などと明日香を巡りながら、ふと思った。