1990年(平成2年)、社会人になりたての私は、仕事の関係で大手広告代理店H堂の方たちとお話しする機会があった。
その中の、当時40歳くらいの男性がこう言った。

「これまでの世の中は、人の物欲に訴え、物を消費させる物質主義の「もの」の時代でした。これから90年代以降は、もっと人間の心や感性に訴える人間主義の「こころ」の時代になるでしょう。」

まだ学生気分の当時の私は、へぇー、と思うだけだった。

あれから30年。

阪神淡路大震災、オウム事件、酒鬼薔薇事件と、平成ヒトケタ時代は、ショッキングな出来事が多く、教育評論家と名乗る方々が「こころの教育」の必要性を説く。

昭和の頃は、うつ病でさえ「人には言えない」病だったが、今では「誰でも罹り得る」病として、ある意味市民権を得ている。

心療内科が開設され、カウンセリングも気軽に受けられるようになった。
1990年代はじめに私は身近な人を自殺でなくしているが、その当時はカウンセリングなんて気軽に受けるものではなかった。
彼女を医者に連れて行こうとしたが、本人が「世間体が悪い」と言って拒んだのだ。
そのような偏見がある時代に育った人だった。

「こころ」の問題がみんなの問題として語られるようになったのは、私にとって嬉しいことだ。
救える命が実際に救える環境ができてきた。

それでは「もの」の時代から「こころ」の時代になっただろうか。

そう考えたとき、何か違うように感じた。

周りを見まわしてみて思う。
80年代以前の「もの」に取って変わったのは「じょうほう」すなわち情報、ではないか。
しかも、ネットワーク化した、「情報」。
インターネット、AI、ビッグデータ。

こんな高度情報化社会になるとは、世の中の流れに最も敏感な広告代理店の人も、予想していなかっただろう。

もちろん「こころ」の時代というのは当たっているのだろう、と思う。
思うが、このおびただしい情報の網に「こころ」は、どのように映し出され、絡め取られるのか。
そこに仏の姿を見るのだろうか。

「重々帝網なるを即身と名づく。」


写真は仙厓さんが描いた弘法大師。