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☆私の本棚☆

読んだ本について思うところを書いています。

あくまでも個人の感想です。

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今回は、佐々木閑著『大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか』のご紹介。

仏教とは何だろう。

宗教とは何だろう。

信仰とはなんだろう。

例えば、信心深い家庭に生まれて、幼い頃からいつも家族で神仏の前で手を合わせていたような方々は、「なんだろう」と思う余地はなく、それが自然なことなのかもしれない。


私は、そうではなかった。

どちらかというと、この世に神も仏もあるものか、と心の底から思っているような人に育てられたように思う。


だからなのか、私は心の底から信じ切ることができない、

と思っているのである。


佐々木閑先生の『大乗仏教〜ブッダの教えはどこへ向かうのか』は、語り手の講師と聞き手の青年との対話という形式をとりながら、釈尊の説いた教えから大乗仏教に変化し、わが国の各々の宗派として伝わってきた流れを分かりやすく(且つ大胆に、と私は思った。)、書かれている。


気になるのは「どこへ向かうのか」の部分だ。


ひと通り、大乗仏教について説明がされ、最後に青年は問う。

やはり私には 「輪廻や業 」というものが存在するとはどうしても思えないのです。

科学がここまで発達した現代において 、仏教を信じることに果たしてどんな意味があるのでしょうか


青年の疑問は、現代に生きる私たちが宗教に関して多かれ少なかれ感じていることだろう。


これについて講師(すなわち佐々木先生)は、一つの考えを示されている。


仏教に限らず、キリスト教やイスラ ーム教も、科学とうまく擦り合わせができないことを 「心の問題 」に置き換え、そしてやがては 、世界の宗教は 「こころ教  」とでも呼ぶべきものに一元化されていくと考えておられるそうだ。


「こころ教 」のキ ーワ ードは 「心 」と 「命 、動詞で言うと 「生きる 」。


講師は言う。

最近の仏教宗派が掲げるキャッチフレ ーズをみると 「生かされている私の命 「命が心を生きている 」といった意味不明で 、しかし口あたりのよい言葉ばかりです

その宗派の教義とは関係のないありきたりの標語だからみんなが受け入れるのであって 、受け入れたところで 、一時の気休めになるだけで何の役にも立たない 。それが 「こころ教 」の本質です

と手厳しい。

しかし、こうも言っている。

たとえ一時的にではあっても 、救われた気持ちになる人がいるとすれば 、それはそれで 、宗教の一つの在り方とは言えます



ここからは、私の個人的な想いである。


釈尊の時代、或いは、空海の時代、さらに下って鎌倉時代にしても、現代に比すれば、理不尽なことだらけであったことだろう。


生きていくことで精一杯。

食べ物が豊富にあるわけでもなく、病気になっても、医療が発達していたわけでもない。

今よりよほど「死」が身近であったことだろう。

理不尽なこと、どうしようもないことは、神や仏に祈るしかない。


現代でも理不尽に思えることは多い。

しかし、古代と現代では「理不尽」の質が異なる。

科学が発達し、豊かで便利になり、困りごとがあっても、神仏に祈る前に現実的な対応策があることが多い。

その一方で「こころ」、「命」の問題が表面化している。


「心の底から信じ切ることができない」と言いながら、私は毎日仕事帰りに虎ノ門の金刀比羅宮にお参りをしている。


神さまの御前で手を合わせている、そこで得られる小さな安心。


「こころ教」なのだ。


先人たちが残した「仏教」という遺産を、現代に生きる私たちの心の糧とし、後世の人たちに伝えていきたい、と私は思う。


「こころ教」なのか?


私は、空海が出した宿題に取り組む時が来た気がしている。