わかる | ブログ.

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事実は小説よりも奇なり.
Truth is stranger than fiction.

息子りんの絵と猫と, 愛する人生と.
Rin’s arts,cats,and loved life.













わたしは
小学生の頃からなぜか
特別仲が良くなくても











一般的にも
今思い出しても










壮絶な体験をしている
友だちが
寄ってくることが
多かった









それに対してわたしは
その意味は分かったし
大変な体験をしているんだ
ということはわかったが










子どもなのもあるだろうが
特別可哀想とも思わなかったし
それに対し何かを聞いたことも
言葉をかけたこともなかった











そして

いつも一緒にいるような

仲の良い友だちは

別に居たりしたので










この時の息子のように

ただそんな友だちが寄ってきたら

それを何となく受け入れ










居なくなったら

それも受け入れ









無意識にだが

何もしない

ということを

していたように思う


























そしてそれは

その後も何となく続き

ある時ふと











「わたしは、わたしなりに

人生に悩んだり

疑問を持ったりして生きてきたし

全く苦労の無い人生ではなかったが


そこまで壮絶な体験は一切無いのに

なぜか人の気持ちがわかる気がする…」

と気づいた










「さらには、

気持ちがわからない人に

一人も会ったことが無い…」

とも思い


会った全ての人を「わかる」「わからない」

と判断していたわけではないので

何となくだったが











だから

色々な人がそれを感じ

寄ってきていたのかと…

ハッとし











その後それは

わたしがわたしを

見せていたことも

分かった
























そして

大人になっても

それはたまに続き










初めて会ったママ友や

二人きりになったママ友などが

突然自分の壮絶な生い立ちを

話し出す

ということがよくあった








 



そしてその頃は

善悪や可哀想という 

思いが強かったからか

一緒に泣いたりしていて











だからか

よく依存もされて

その距離感に悩んだことも

たくさんあった













そして

その後わたし自身が

壮絶すぎる人生

歩み始め











内側にある

人の気持ちが何となく

〝わかる〟に












外側の体験から

人の気持ちが痛いほど

〝わかる〟が

プラスされていった



























だから

こういうこと

起こってきた


























そして

内からも外からも

〝わかる〟という











こういう

体験をしたのは

わたしには衝撃的で









それは

本当に大きな

学びとなった





















でもこのひとも

依存では

全くないが










やはり人は

わたしもだが

〝気持ちがわかってもらえる〟

ということは本当に嬉しいし











〝人の気持ちをわかってあげられて

それを喜ばれたら〟

本当に嬉しいので











さらにさらにと

どちらも求めてしまい










その結果依存関係になる

可能性があることも

同時にわかった











そして

わたしは無意識に

気持ちを外に

開く傾向があり









それは

無意識でもあるが

人を喜ばせたい

仲良くなりたい 

共有したい

相手を知りたい

などということでもあり









それ自体が

悪いことではないが










自分の気持ちや直感を

脇に置いてまで

それをしてしまうと








それは

自分を大切にしない

自分を愛していない

自分を蔑ろにする

ということだと

だんだん分かってきた










そしてそれが

わたしが何度も体験してきた

パニック障害の原因の
一つでもあり









そして
無意識に開き
疲れてしまうと
今度は自分に閉じ籠り








そんな両極端な
双極性障害のような状態を
繰り返す傾向にあることも

だんだん気づいていった











だからもう

それらから

卒業するときだと

思うようになった

今は











境界線を大切にしながら

自分を愛すること

集中し










目の前のことを

地に足を着けて

ゆっくりゆっくり

丁寧に丁寧にしながら









もう右か左か

または

走るか休むかの

両極端を卒業し










真ん中を中道を

コツコツコツコツ

歩き続けるという生き方へと

シフトしていて











その結果

他人を幸せにすることができれば

わかってあげたら

こんな幸せなことない

と思うようになった























そして

人との心地よい

正しい距離感を

考えたとき











今わたしは他人に

「わかるよ」

と言う言葉を

言いたい訳ではないのもあるが










「わかるよ」という言葉を

発したりすると

依存になりやすいことも

あるのかもしれないと思った











でもその代わり

〝わかる〟という

ハートを開いた状態や

温かい眼差しは











届くべきひとには必ず届き

それは依存には

ならないのではないか

とハッとし









それが

人との正しい距離感

正しいバランスなのではないか

と思った 













そしてそれが

子どもの頃のわたしが

無意識にしていたことで










幼稚園のときの息子は

多分どこかでわかって

それをしていて













そのときどちらも

依存は無かった

とハッとし









ああ

還ってきたな…









もう

24時間

それで生きるときだ…

と思った





















そしてわたしは

子どもの頃からずっと











他人にも自分にも

強く求めていたのは

理解〟だったのだが








この〝わかる〟という

ハートを開いた

温かい感覚が

当たり前になったら










まだ僅かにあった

理解されたい

という欲求も

無くなっていた














『わかる』と『理解』は重なる部分もたくさんあるが

わたしの中では微妙にニュアンスは違い


〝わかる〟が右脳の感覚での理解やハートでの

ふわっとした理解なら

〝理解〟は左脳や脳でのしっかりとした知的理解で

わたしはどちらも求めていて


だからこのブログも右脳と左脳、感覚と知的情報

両方の視点を大切にして綴っている