時代について | 言葉で写真を撮ろうか

言葉で写真を撮ろうか

海津の手元には自分の写真がない。だから代わりに言葉で撮る。だって物書きだもの。


 作家に池澤夏樹という人がいて、その著書の『楽しい終末』だったか、『母なる自然のおっぱい』の本で、「その時代に生きる人はその時代を知ることは難しい」というようなことを言っていた。

 その言葉に何となく挑戦的な感情を持ったわたしは、それを覆すためにあれこれ考えた。

 そもそも、彼の言葉がわたしに響いたのには理由があって、彼の小説の中でも『スティルライフ』を好んで読んだからというのがある。それは論理的にというより感覚的なものであったけれど。


 自分の生きる時代というものにアプローチするために、いかに客観性を持つかということに関して、物事の具体的事実と本質を見極める必要がある。

 歴史的に見ると、時代が進むごとに現実的に人権は保証され、個を強く主張できる、或いは一般化されているように思う。

 例として物質的側面から言えば、戦前戦後は車を所有している人はお金持ちしかいなかったのに、今では当たり前だったりする。外車がブランドとして稀有なものだったのが、今では割合を増している。

 家族の単位でしか持てなかった『住居』が個人で持つ、所謂一人暮らしの割合が増えている。ある種の思想、哲学が具現化した状態であるのだけれど、その思想、哲学そのものは全然新しくも何ともない。


 資本主義におけるヒエラルキーは資本家、経営者、労働者に分けられる。それは資本主義が発明された当初から大きく変わってはいないのだが、過去のそれと違う点を言えば、日本もとい、先進国の労働者は経済がグローバル化することで、労働者層に幅が出来て、搾取という点において先進国内ではなく、発展途上国に移動しているから、貧しいとは言えない。

 現実的に日本の問題の多くは物理的な側面よりも、精神的な問題、それも個人おける精神的問題に焦点があたる。

 というのは、一つは価値の多様化によってお金持ちの所有物が一般市民にステータスとして映らないときがあり、それは個人の嗜好(しこう)として理解されている。単純な価格的価値よりも、自分だけのものを求める傾向にあるから、他者と同じものを持つことに抵抗が生まれて自己同一性が危ぶまれるためである。自己同一性が危ぶまれるというのは自分が自分を否定したい思うことで、個人の理想と現実の間に埋め難い溝を実感することである。

 それが無限大に拡大すると、何が正しいのかわからなくなる状態になる。個人の価値観の中に生きる限り、そこには絶対しか存在しない。正誤は相対性のものだから、他者と比較しないなら間違えようがない。

 しかし、個人が尊重されても人は不安になる。何故なら個人が個人として成立するほどに、或いはそう実感するほどに他者と乖離すること、つまり孤独であるからだ。人は普通、孤独を望まない。孤独に加え他人に否定されると個が揺らぐ。だから否定を怖がる。

 今の世の中が情報過多と呼ばれるのは、情報が個人の処理能力を超えているからで、何故超えているかというと、その大きな要因にネットの存在がある気がする。

 ネットの中には無限に近い情報があるから、間違えることに抵抗が生まれてくる。調べないのは自己責任であるし、その情報の真偽を確かめる能力が問われるのだが、真偽を問うためには、これまたたくさんの情報が必要で、明確に価値観を持たなければ取捨選択の判断が出来ない。判断が出来ないのに情報が無限に存在する。それは個人がまとまりのない情報の中に分散し、流出しているようにも見える。


 これをまた、あくまで個人の価値観としたとき、一つ解が失われてしまう。不思議なもので、自由が保証されればされるほど、人は孤独になり、活動の範囲は狭まるという現象が起きる。公私の間に明確な二面性が出来てそのジレンマにストレスが生じる。

 自分のことは受け入れて欲しいけれど、他人のことは受け入れにくい。受け入れてもそこに共感が生まれることで、個人固有のものは失われ個人は曖昧になる。個人の価値観は抽象的なもので目に見えない。極めて分かりにくいし、その理解には多くの時間を要する。

 他者とのコミュニケーションは相手に自分の価値観を伝える機会である一方で、相手の価値観を理解する機会でもある。

 個性を伸ばす教育を人は求めるけれども、それを教育できるのは他者の個性を理解し、受け入れている人、理解している人に限られるとわたしは思う。


 で、端的に言うとあまり自己を主張しないか、他人の価値観を自己の価値観の中に共有している割合が多いということなると思う。内包と言うか。


 人と接する時間というのは限られている。人を理解するということはとても時間がかかる。


 人の心の姿を心象(しんしょう)というのだけれど、心象を捉えることに焦点を当てたのがたぶん文学であるわけで、その纏(まと)まりが本かなと思うのです。


 本は読むまで何が書いているかわかりません。

 感情移入をしたとして、肯定されれば喜んだり、励まされたりします。


 否定されたとしても、それを誰かに見られることはありません。嫌になったら閉じればよいのです。


 好きな時に会えて、好きな時に別れられるのです。そういう意味で本は優しい。


 海津はそういう理由もあって文学を選びました。世の中にはたくさんの表現物、芸術があります。表現者はそれぞれにそれぞれの想いがあると思うのです。海津はそういうものに接(ふ)れるのが好きです。


 それを踏まえての文学至上主義です。



 だから、本てすごいんだよ!っていう話。



 さぁ皆で本を読もう!