どうもこんにちは、りんですm(_ _)m
栃木県足利市巴町2545
浄土宗
帝釈山 智願院 法玄寺(ほうげんじ)
建久年間(1190-1198)春、足利義兼の正室・北条時子は義兼が鎌倉に詰めていた頃、郊外にて遊んだ時に喉が渇いたので藤野という女が汲んだ水を飲んだ
その後、日が経つにつれ腹部が脹れて妊娠した様に見えて来た…
この頃、足利館には足利忠綱が滞在しており藤野と通じていて、義兼が鎌倉から帰ると時子が忠綱と密通していたと嘘の報告をする
義兼は時子を責めたが、時子は身に覚えの無い事なので「死後我が身体をあらためよ」と言い自害
調べると腹には蛭がいた事がわかり、春に飲んだ水が原因と判明
義兼は時子の遺体を現在地に埋葬し菩提を弔い、時子の法号は「智願寺殿」とする
義兼の子・義純は畠山重忠の未亡人(時子の義妹)を室とする
未亡人は時子の最期に思いをはせ、重忠・時子の菩提を弔うために寺院建立を決意
義純も心を動かされ、時子が埋葬されている地に寺院を建立
畠山重忠は帝釈天の化身とも言われた事から、山号を「帝釈山」とし、時子の法号・智願寺殿から院号を「智願院」とする。
義純は死後に法玄大禅定門の法号を贈られ、こちらより寺号の「法玄寺」を採った
その後、隆盛するも文禄年間(1593-1596)には荒廃する
慶長11年(1606)、足利の地が天領となり代官・小林重郎左衛門重信が堂を再建、この時の僧が寂蓮社照誉芳陽であり、中興一世にあたる
この中興の際に真言宗から浄土宗へと改宗
慶安元年(1648)、15石3斗を幕府より賜る
寛文4年(1664)、火災により焼失し再建
再建時、現在の足利市山下町にあった智光寺より阿弥陀如来像を迎える
明治18年(1885)3月、火災により焼失
明治22年(1889)、落慶法要
こちらは去年の足利市文化財公開時の参拝になります。
雨上がりの参拝でして、裏山の墓地には相田みつをさんの墓があるのですが、みつけられず( ´ ω ` )
寛文4年の焼失後に本尊を智光寺より迎えるのですが、不思議な事が…
迎えた翌日、本堂の奥に安置したはずの仏像が本堂の真中に
そのまた翌日、奥へと戻したはずの仏像は本堂の入口へ…
次の日、檀家達は本堂の暗がりに身を潜め待ち構えていると仏像がゆっくりと歩き始めた
元の智光寺に帰りたかったのだろうと思われるが、また歩き出さない様に鎖で繋いだそうです。
なお、この仏像は明治に焼失しています。
仏像も元の寺が良かったんですかね…
明治の焼失後、足利市の東光寺より本尊を迎えました。