どうもこんにちは、りんですm(_ _)m


茨城県笠間市来栖2696
真言宗 智山派
醫王山 護命院 岩谷寺(いわやじ)
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寺号標

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平城天皇勅願所碑

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山門

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境内

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手水

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本堂

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石仏

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薬師堂

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収蔵庫

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薬師如来坐像(国重文)

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薬師如来立像(国重文)


仏像写真はパンフレットより引用


創建は大同4年(809)、平城天皇の勅願所として空海の弟子・秀悦阿闍梨により開基


当時は現在の笠間市街の東側にある佐白山、その北側に寺があったとされ、護命山醫王院岩谷寺と称していた。


承久3年(1221)、笠間時朝が佐白山に城を築くにあたり忠圓阿闍梨を迎え、現在地に移転し再興


この際、醫王山護命院岩谷寺と改める


江戸期には30石の朱印地を与えられ、末寺5ヶ寺・門徒26ヶ寺を持ち、境内には大小14の堂宇があったそうです。


元禄5年(1692)、笠間藩主・本庄宗資により薬師堂改修


明和6年(1769)、山門建立


文政11年(1828)・明治16年(1883)、火災により諸堂焼失し山門のみ免れる


こちら、かさま文化財公開の時の参拝となります。


ここ岩谷寺は笠間市郊外の寺でして、参道が狭く車同士のすれ違いは困難な為、当日はスタッフが参道入口と寺に居て交通整理をしていました。


ほんとありがたいですね…欲を言えば、前記事の楞厳寺も同じようにして欲しかったなと、同じくらい狭いんだがなぁσ(^_^;)


さて、こちらでは重文の薬師如来さまが2躰公開となっておりまして…


ほんと良かったわ、見惚れていたと言っても過言ではない


数人に対してスタッフの説明があって、それを聞きながら観ていたが…全く耳に入って来ないσ(^_^;)


おかげで、スタッフの説明用の資料を見せてもらうハメに(笑)


なお、薬師如来坐像は平安時代末の作とされ、薬師如来立像は鎌倉時代中期、建長5年(1253)に笠間時朝の発願により造られたと刻銘があるそうです。


こちらの仏像も笠間時朝により造られたものでありまして、花祭時に開帳となりますので興味のある方は是非


ちなみに、花祭時にのみ開帳というお寺さんも結構多いので、この日を狙って普段見ることができない仏像を拝観しに行くのもいいですね( ´ ▽ ` )ノ


あと、本庄宗資ですが…この人の出世がすごい


摂関・二条家の家臣の二男として生まれまして、最初は切米800俵から始まり…その後加増が続き下野足利藩1万石、常陸笠間藩4万石→5万石


とまぁ、恐ろしいまでの加増ですな( ̄▽ ̄)


でもこの人、コネなんです


5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が姉になるのですよ…


将軍の叔父ですから、この出世もわからないでもないがなぁσ(^_^;)


最終的に、次の代には松平姓も与えられてますしね…この家は本庄松平家と呼ばれまして、4代松平資昌から丹後宮津7万石で幕末まで存続しています。


調べてて、コネは必要不可欠なものなのかなと思ってしまいました(;´Д`A


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文化財公開中のため受付で頼み、庫裡内にていただけました