どうもおはようございます、りんですm(_ _)m
栃木県小山市網戸2025
式内社(小社)
下野国寒川郡 胸形神社
大同元年(806)10月28日、再建と伝わる
天慶2年(939)、藤原秀郷が平将門追討に際し戦勝を祈願し金百貫文を奉納
文治3年(1187)、源頼朝が小山政光の妻・寒河尼(網戸尼)を地頭職に任じ所領を寄進
その後、歴代の網戸城主の崇敬が篤かったそうです。
寛政(1789-1801)・文政(1818-1830)にかけ、社格問題で紆余曲折を経たが古河藩の治世下において篤志家が神職を輔翼し神社を護持した。
大正3年(1914)5月20日、思川河川改修工事の為に本宿(乙女大橋付近?)から北の旧網戸城内へと遷座
御祭神は田心姫命、配祀は大山祇命・天児屋根命・木花開耶姫命
また、鳥居東に
この地に関係のある御二方の墓もあります。
こちら、式内社・胸形神社の論社として知られていますが
胸形神社の社号標が、手水舎の写真後ろに見える植木の中にありまして
なんでこんな目立たない場所にあるんだろうかって思ったが…
江戸時代の社格問題で、同じ小山市内に鎮座している胸形神社に負けたんだろうか?
そして、社号標もこんな隅に追いやられるハメに…なった?
今でこそ社格は意味の無いものとなっていますが、昔の人々にとは非常に気にするものだったんだろうなと
今でも、この社格に拘りすぐ近くの神社よりも格が上だと言ってるところもありますが
そこは、確かに社格自体は上ですが現在地と違う郡から遷座してきて、元の郡の社格を持ち出し「こっちが上だ」と…
その社格は元の郡での社格であり、今の郡での社格では無いんだがなとσ(^_^;)
まぁ、そんな事実(問題点)もある社格制度ですが…
下野国寒川郡・胸形神社の論社として参拝してみてはどうでしょうか?
追記(平成28年1月3日)
御朱印