第七章 紅衣は楓より赤く、肌は雪のように白い
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菩薺村の空が、深い蒼からだんだんと白み始める。小屋の窓から柔らかい陽射しがゆっくりと入り、ゴザの上で眠る太子殿下が徐々に光りに包まれていく。その様子を、花城は供物卓の側に座り頬杖を突きながらずっと見つめていた。供物卓の壁の上には、「仙楽太子悦神図」がかかっている。
こんなにも朝の訪れを楽しみに待ち、朝の陽射しを心地よく感じたことが今まであっただろうか。
幸せな気持ちで太子殿下を見つめながら、今から始まる新しい一日に思いを馳せる。
ふと、太子殿下が起きたら何と声を掛けたら良いのかと思い、花城はそわそわと辺りを見渡した。
(おはよう……??兄さん、よく眠れた……??)
急に気恥ずかしさが込み上げ居たたまれなくなり、花城はゆっくりと立ち上がる。
「三郎」に姿を変え垂れ布をめくり外へ出ると、小屋のまわりをぐるぐると歩き始めた。
頭を冷やしながら改めて小屋をよく見ると、風が吹くだけで今にも崩れそうなほどボロボロだとわかる。
こんなボロ家ではなく立派な宮観を建ててあげる。今の花城ならそう簡単に言えるかもしれない。しかしそういう事を太子殿下が望んでいないこともまた、昨日太子殿下と過ごしてわかった。
せめて太子殿下が選んだこの場所を、少しでも居心地の良い場所にしたい……。
花城は庭の片隅に箒があるのを見つけると、それを手に取り掃除を始めた。
太陽は次第に高くなり、柔らかかった陽射しはどんどん強さを増していく。
花城は庭の落ち葉を全て一か所に掃き集めると、小屋の中を覗き込んだ。まだ太子殿下が起きる気配はない。綺麗になった庭を見ながら、花城は小屋の中に入ろうかどうかと考えあぐねる。陽射しを避け小屋の中に入りたかったけれど、起きた太子殿下とどう会話を交わせばいいのかわからず、逃げ場のない狭い小屋の中にどうしても入れなかった。
しばらくの間、小屋の日陰で壁にもたれながら太子殿下が起きてくるのを待っていると、殿下が動く音が壁越しに伝わってきた。少し緊張する気持ちを誤魔化すように、花城は箒を弄びながら太陽を見上げる。
「昨夜はよく眠れたか?」
昨日と変わらない太子殿下の穏やかな声に、花城はゆっくりと顔を向けた。
「悪くなかったよ」
花城は落ち着き払って答えながら、近づいてきた太子殿下に持っていた箒を手渡す。
「三郎、観にあったあの肖像画は君が描いたのか?」
「うん」
「実に見事だよ」
太子殿下の言葉が、花城の心に沁み込んでいく。
口角を少し上げただけで花城が何も言わずにいると、太子殿下が花城の髪をじっと見つめた。
「私が結い直そうか?」
突然の申し出に少し驚きつつ、こくりと頷き花城は太子殿下の後に続いて小屋の中へと入る。花城が黙って座ると、太子殿下が髪を解き優しく手に取った。花城の背中が一瞬ぞくりとし、顔がわずかに歪む。
太子殿下はそんな花城に気づくことなく、髪を一本一本撫でながらしげしげと髪を見つめていた。明らかに髪を結わうわけでもなく、確認するかのように髪を触り続ける太子殿下に、先程までの緊張がほぐれ笑いが込み上げてくる。
「兄さん、それって僕のために髪を結ってくれてるの?それとも僕に何か他のことをしようとしてるとか?」
少し顔を横に向け太子殿下を見上げながら、花城は笑いながら冗談めかして言った。
「わかったよ、もう終わるから」
にっこりと笑い返し慌てて手早く髪を結う太子殿下に、花城の頬も緩む。
昨日の手相占いといい、髪の毛といい、花城が何者であるかを探ろうとしている殿下がわかりやすくて、愛らしく思わずにはいられない。
結い終わった髪を見ようと花城が傍らにあった水の入ったたらいを覗くと、髪を斜めに結われた「三郎」の姿が映っていた。眉を跳ね上げ太子殿下の方を振り返ると、気まずそうに太子殿下が軽く咳払いする。
「こっ……」
太子殿下が何か言おうと口を開いた瞬間、「仙人様!!」と叫ぶ声や、がやがやと騒ぎ立てる音が外から聞こえてきた。
驚いた太子殿下が慌てて観の外へと出て行くと、たくさんの村人たちが一斉に殿下を取り囲む。
「仙人様!俺に嫁さんが来るようご加護をお願いします!」
「仙人様!うちの女房が早く子を産んでくれるようご加護を!」
太子殿下を取り囲んでいた村人たちが、我先にと観の中へ入り小さな香炉に線香を立て願い事をしていく。
花城はその様子を功徳箱のそばに座り、近くに置かれた慈姑を口に入れながら眺めていた。
そんな花城に気づいた村の女が、何か言いかけた瞬間、
「祀っていません!」
花城の前に立ち、両手を広げて太子殿下が遮るように慌てて口を開く。
あたふたと村人の対応をしている太子殿下に、花城は笑いを堪えながら、この騒ぎが去るのを静かに待った。
村人たちがやっと帰り、太子殿下は床に落ちた細々したものを外へと掃きだしている。
「参拝客、けっこう多いんだね」
太子殿下について外へ出ながら、花城は声をかけた。
「普通だったら十日か半月は誰も来ないはずなんだけど」
「そんな、まさか?」
驚く花城に、太子殿下がにっこりとほほ笑む。
「もしかすると三郎の運気にあやかれたのかもしれないな」
太子殿下のその言葉に、花城の胸がきゅっと締め付けられる。
(運気が役に立つのなら、全部あげる……)
今の自分は、全て太子殿下の為にある。今すぐにでも、自分の全てを太子殿下にあげても良い。でもきっと、太子殿下は受け取ってくれないだろう……。
ふと顔を上げると、太子殿下が入口の垂れ布を外し、新しい布を入り口にかけていた。その布には、邪のモノが侵入できないよう呪符が書かれていたが、扉のない観はどう見ても安全とは思えない。
昨日は一緒にいたからあまり気にしていなかったが、自分がいない夜にこんな扉もない観で太子殿下が一人寝るのかと思うと、居ても立っても居られなかった。
入り口を見つめたまま固まっていた花城に、太子殿下が不思議そうに「三郎?」と声をかける。花城は太子殿下をちらっと見ると、にっこりと笑った。