昨年9月から通い始めた長女の児童発達支援教室。


最初は、「姿勢良く座って待つ」とか、「先生のほうをちゃんと見る」「与えられた課題をこなす」とか、結構最初から最後までぴしっぴしっとやる印象で、「なんでこんなことをやるの?」と疑問がいっぱいだったけれど、小学校での生活がスムーズに行えるためなのかな?と自分を納得させたり(笑)、その時の担任の先生がとても良くて、質問したらその都度真摯に教えてくださったので、「そういうものなのか」と思い込むようにした。


実際、長女は楽しく通っていたし、私自身も勉強になることが多かったので今までは良かった。


でも最近、長女がちょっと教室で過ごしただけで、終了後どっと疲れるようになったのだ。


私も同じく…


この感覚はなんだろうって思った時に、教室では終始先生に褒められる、認められる、ぴしっとやることに特化しているから、私や長女みたいな自由人タイプ?には疲れてしまうのかなと思った。


教室では、かなりオーバーに褒められる。


些細なことでも、それはそれはおおごとのように。


私は今まであまり褒めるタイプではなく、淡々と子育てしていたほうだったので、当初は先生のオーバーリアクションと褒めの連発に驚き戸惑い、若干引いてしまっていたのだが、長女がそれで喜び自信に繋がり生き生きしているように感じたられたので、私も次第に真似るようになった。


でも、大袈裟に褒めるのは疲れる。


私は次第に、「わーすごいね!」という言葉を筆頭に、褒める言葉を発することが目的になってしまい、長女が見せたいものをちゃんと見なくなっていったように思う。


反応することに必死だったのだ。


誤解がないように言うと、教室の先生は具体的に褒めてくれるし認めてくれるし、本当にいい先生ばかりで大好きだ。


ただ、先生がやられていることを私が毎日我が子に実践したいかはまた別の話で、一時期真似てみた上で、私はもういいかなと感じただけだ。


私は子どもの頃、お人形遊びが好きで、よく自分の世界に入り込んで夢中になって遊んでいた。


遊びに没頭していたら、母がニコニコ微笑ましい顔でじーっと見ていて、急に恥ずかしさを覚えた。


それからは、見られているのか意識しながら遊ぶようになっていった。


他の人がいる空間では、他者の視線を意識するようになって夢中になって遊べなくなったのだ。


まぁそういうお年頃だったのかもしれないけれど。


なんというか…上手く言えないけれど、好きだったら勝手にやるし、集中する。


それを周りの大人が見る行為は、たとえ温かい眼差しであったとしても、当人にとっては邪魔になるのかなと子どもの頃の記憶から感じるから、私は子どもたちが何かに没頭していたら、基本近くにいても存在を消す。笑


声をかけられた時にのみ応じる。


褒める行為一つにしても、それをされる側が本当に望んでいるのか、今何を一番望んでいるかを常に感じとれる自分でいたい。


教室の話に戻ると、決して教室を否定するわけではなく、むしろ通って良かったと心から思っている。


先生方にも非常に感謝している。


ただ、長女が疲れてしまうのなら、無理に通わなくていいのかなと、あと2ヶ月ほど残して感じることだ。


本人の感覚を大切にしたい。