利休賜死は朝鮮出兵に原因? | 千利休ファン倶楽部

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千利休の哲学や思想、
考案した茶の点前に関する
様々な事柄を記事にしていきます。

茶聖、と言うよりもむしろ、
人間、千利休に焦点をあてていきます

今回は利休がキリシタン信仰の
庇護者だったのでは、と言う前提で
話を進めます。



朝鮮出兵に話を戻しますが、
伴天連追放が1587年、
利休賜死が1591年、
朝鮮出兵が1592年。

利休は伴天連、ことスペイン人や
ポルトガル人が追放されるのはやむなし、
と考えていたと思います。

ところが事情が変わるのが
朝鮮出兵の準備が始まってから。


このころ、既に利休と秀吉の美学には
相違が生まれてきており、
利休は秀吉に対立する美学の持ち主へと
前進していました。


秀吉のための茶会で利休は、
敢えて秀吉があまり好んでいない黒楽茶碗を用い
弟、秀長にその理由を言っています。

「黒とは古き心なり、赤は雑なる心なり」

と。
つまり赤楽茶碗を好んだ秀吉の心は
雑念で一杯になりすぎている、と
天下人に対して堂々と喧嘩を売っていたのです。

普通の人ならばそれだけで
即刻打ち首は間違い無いところでしょうね。

ただ、利休はそれを許されていた。

それぐらい利休の存在は、
秀吉にとって畏るべきものであり
そして、欠かせぬものでもありました。

ただ、その利休に対して
秀吉は切腹を申し渡した。

朝鮮出兵の最たる目的は
朝鮮の領土が欲しかったとか
明に対する対抗意識だったとか
もしくは信長の遺志を継いだものだったとか
色々言われておりますが、
私は、出兵「せざるを得なかった」のだと
考えています。


と言うのも、前回書いた通り
日本にはキリシタン信仰が浸透しつつありました。

そのキリシタン布教の目的は、
日本国を懐柔し、スペインの領土とすること。

それを食い止めるには伴天連追放だけでなく
スペインに対して日本の軍事力を見せつけるのが一番。

そこで朝鮮出兵をすることで
日本の国力をスペイン国王に
知らしめたかったのではないか、
と睨んでいます。


で、それと利休の賜死との関係。

まぁ大体想像が付くのでは、と思いますが
利休はキリシタン大名を多く弟子に抱えており
前出の通り、その思想的影響も受けていたことから
キリスト教信者の集まりであるスペインが
そこまであくどい事をするはずがない、と
秀吉に主張したのではないでしょうか。


それは、前出の年号からも想像がつきます。
伴天連追放令が1587年で、
利休の賜死がその4年後ですので
利休はその地位と権力を使って
4年間はキリシタン大名達を何とか庇護していた。

庇護、と言うより制御していたと言う表現のほうが
正確かも知れません。

いずれにせよ、そこで利休と秀吉の仲は
決定的に悪くなった、
と言うか、利休が秀吉を
かなり怒りの目で見るようになった。

そんな利休のご機嫌を取るために
秀吉が利休に開催を命じたのが
伴天連追放の4ヶ月後である1587年11月の、
北野大茶会として知られる、北野大茶湯。

ところがこのイベントは
利休の気持ちを動かすほどには
至らなかったのでしょう。


とまぁ今回はここまで、続きはまた次回。