大徳寺の山門、金毛閣と利休賜死 | 千利休ファン倶楽部

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今日のお話は、大徳寺木造の話。

大徳寺の金毛閣と言えば、
利休賜死の原因の一つと言われている、
利休木造が安置された場所として知られています。

応仁の乱で焼け落ちた金毛閣を
利休が多額を寄進したことにより、
復活させる事が出来ました。



だからこそ、
当時大徳寺の別当を勤めていた古渓和尚が、
利休立像の制作を指示したのです。

ちなみに当時の仏閣などでは、
金毛閣の利休立像に代表されるように、
多額の寄進をして
寺に大いなる貢献をした人の木造を作り、
楼閣に飾るのは当然の風習でした。


ところが、それを良く思わなかったのが、
清貧の武将として知られる石田三成。

石田三成は自分の家も
極めて質素にしたままにするほど、
天下のために私財を尽くす
純粋タイプの武将でした。

そのため、
利休のような民間人が豊臣政権で幅を利かせ、
横では茶道具を売りさばいて
大儲けしているのが
どうしても気にくわなかったのでしょう。

「金毛閣に利休立像が出来た」
と言う情報を耳にした三成は、
突如大徳寺にはせ参じ、
次のような事を古渓和尚に言います。

「利休の足の下を、
上様(秀吉)や禁裏(天皇家)が歩く事を考えなかったのか。」

貢献者の立像を作るのは
当然の習わしだった当時からすれば、
単なる言いがかりであることは明白です。

これを利休賜死の理由に
持って行きたかった三成ですが、
それをする事は叶わず、
結局利休立像そのものを
一条戻橋(いちじょうもどりばし)で磔にし、
最終的には火あぶりの刑に処しています。


利休賜死の理由は様々に言われていますが、
私が思うには、
朝鮮征伐への口出しが最大の原因ではないか、と。

と言うのも、大徳寺の山門である
金毛閣の利休立像事件にしても、
立場を利用した道具の売りさばきで
大儲けしていた事にしても、
他にも様々あるでしょうが、
利休の豊臣政権に対する
貢献度の方が遙かに上回っているのです。

つまり
利休は茶の湯を通じて多くの戦を未然に防ぎ、
数え切れないほどの武将を和解させ、
豊臣政権の全国制圧を
極めて力強くサポートしていたのです。

しかもそれらの功績を全て、
名目上秀吉の物にしている。

秀吉からすると、
利休に対する借りがあまりにも大きすぎたのです。


私が考える利休賜死の原因は、
秀吉に大きな貸しを作っている利休が、
その立場を利用して
朝鮮征伐に強く反対したためではないか、と。



それを疎んだ秀吉は、立場に過ぎる発言をした、
と言う理由で切腹を命じたのではないか、と。

そして、それまでの利休の貢献に免じて、
具体的な利休切腹の理由は、
利休の名誉を守るために公表しなかったのではないか、と。


そこでネックになるのが「利休の名誉」です。

何故利休の名誉が守られなくてはいけなかったのか?

それには、利休が生み出した茶の作法の
裏側に秘められた謎にあると睨んでいます。

それについては、また次回。

とにかく、金毛閣の利休立像事件は、
利休賜死の直接的原因には
「なり得ない」と言うのが事実だと思います。