補遺 その8
崎谷先生の『DNAでたどる日本人百万年の旅』の気になる記載について述べる。
Y染色体D2系統について、
「アイヌ民族のY染色体分析では、もうひとつのグループであるD2系統が87.5%みられることが報告されている。このD2系統の現在の分布は、C3系統とはまったく異なりシベリア東部・極東にはみられず、日本列島のみに高い集積を示している。このD2系統は新石器時代における縄文文化の担い手であることが推定されており、新石器時代に朝鮮半島を経て九州に流入してきた可能性が考えられる。このD2系統ヒト集団の流れは、北海道において本州北部経由の縄文文化の南方からの流れを示すことになる。
…北海道のアイヌ民族のケースでは縄文文化の担い手であるD2系統がアイヌ民族の中に高い頻度で確認されることから、縄文文化の担い手がアイヌ民族の構成要素のひとつとして役割を果たしていることがDNA多形分析の結果は示している…」
というのであるが、これまでお付き合い頂いた皆さんにはこの理論が誤りであることがよく分かると思う。
誤りその1:縄文時代からアイヌ文化成立のわずか700年前までの時間的歴史的変遷を無視している。
誤りその2:ショウジョウバエやマウスの集団ではない人間集団の文化的・社会的・経済的要素を無視している。
誤りその3:Y染色体D2系統の広がりを、縄文文化の流れと同一視している。
誤りその4:ミトコンドリアDNAの分析結果を無視している。
誤りその5:現代の自称アイヌから得たサンプルを、何の歴史的検討もなく採用している。
また、アイヌ社会については自然と共存する平等社会であるという趣旨の記載がみえるが、これは全く事実に反する。
本文に、
「アイヌ民族はかつてエゾシカを食料源のひとつとして利用していたが、資源を枯渇させるほどの大量捕獲を行っていたわけではないこと、…」
とあるが、実態は江戸中期から鹿革や漢方薬の材料として角の需要が高まり、アイヌは落とし穴に追い込む方法で、老若雌雄関係なく群れごと捕殺していた。
また明治になってエゾシカ資源が枯渇することを恐れた開拓使はシカ猟を和人には禁止し、狩猟を一部のアイヌに許可制にした。
さらに明治九年に人身事故が絶えない危険なワナの毒矢使用を禁止し、
代りに猟銃を貸与してその取扱いを教示するに及んで
アイヌによるエゾシカの捕獲数はさらに増えてしまった。
当時の函館新聞にはシカ猟を独占して大金持ちになった二人のアイヌが紹介されている
(残念ながらコピーが行方不明、もし読者の中でお持ちの方はコメント欄/FBのメッセージで配信してください)。
よく言われている「アイヌが自然と共生して生きていた」などというのは真っ赤な嘘で、江戸期から交易のために、現在では天然記念物になってしまったオオワシやオジロワシをはじめ、カワウソやラッコなどは乱獲によってほとんど絶滅までに追いやられてしまった。
開拓によってアイヌの重要な食料であるエゾシカが減ったといわれているが、アイヌ自身が食糧のためではなく毛皮や爪、そして角をとるためにエゾシカを撃ち殺し続けたのだ。
当時鵡川地方の人口が千五百人足らずであったにもかかわらず、八月の段階で既に五千頭のエゾシカを捕獲したという記録もある。
かつて鯨油だけを目的にクジラを乱獲したアメリカや、現在もフカひれを目的にサメを乱獲しつづける
支那人同様の状態がアイヌによって北海道で続けられていたのである。
次に「民族の社会構成原理が平等を旨としていた」とあるがこれも大間違い。
これについては字数の制限のために次回以降に詳述する。