1月10日(土)

突然ですが、ダイエット仲間である、G・Oさんの母校に
お邪魔しました

【大橋の歩道橋の上から】



【サントス通り】

以前、セントポール通りの記事のときにちらっと紹介した
浦上天主堂前から始まるサントス通りの出口がここになります。



余談。
こちらの某工務店、車庫が異常に狭いのですが、その車庫入れの
テクニックが神業であるとして、時々取材が来たりします



【浦上川】 二級河川

面影はあると思いますが、随分雰囲気が変わったでしょう

私が子供の頃も、ものすごく汚かったです
今は、ボランティアの方々が、浦上川を蛍や鮎の住める川にしようと、
定期的に、大規模な河川の清掃活動をされているのです。(脱帽)



ピヨとり



【永井坂と永井桜】

山里小学校は左手。
(右手に行くと、ほどなく浦上天主堂に着きます。)

永井隆博士が出版した本の印税から桜の木50本が寄贈され、
沿道に植樹されたことにより、このような命名がされております桜*
※永井博士については、生涯も人となりもなかなか興味深いので
いつか別立てできっちりやりたいと思っています。



【昆虫の楽園に】

わお!
これは、いい話なのか、怖い話なのか。



【裏門】

というか、運動場へ続く道。



【正門】

長崎市立山里小学校正門です。
私は、高〇小学校卒業なので、ここに来たのは今回初めてです。



【校舎】

G・Oさん、ガッカリするかもしれませんが、今の校舎はこんな感じです・・・

私の勝手な推測なのですが、校舎の建て替えのとき、浦上天主堂を
イメージして作っちゃったかな~?ですね。
(ここは小学校だぞ、長崎市は一体何を考えているのだ!?)



爆心地から2番目に近い小学校だったので、校内には原爆に関する
遺構のようなモノが点在します。(ほとんど後付けですが・・。)

一般に公開されています。



【岩石園】

私、中学生時代、地質をやってたことがあって、ちょっと興味を
そそられたのですが、どれも同じ石ころに見えましたよ



先生!
ちゃんと仕事してください



学園ドラマとかに使われそうな、中庭



山里小学校の沿革を紹介しますね。

歴史は、古いです。

山里小学校の前身は1874(明治7)年。
正式に山里小学校となるのは、1882(明治15)年。

その後、学校令の改正により、山里尋常小学校→
山里尋常高等小学校→長崎市山里国民学校となったりしますが、
最終的に今の長崎市立山里小学校となるのは、1947(昭和22)年の
ことです。

山里小学校は、1945(昭和20)年8月9日に投下された原爆の悲劇を
切り離して語ることは出来ません

爆心地から2番目に近い小学校と言いましたが、
北へ約700mしか離れていません。
(1番近い小学校は城山国民学校で、爆心地から西に約500m)

児童は、丁度夏休み期間であったこと、6月に沖縄が米軍の手に落ち、
本土空襲に備え自宅待機の状態であったことから、校舎内での
被爆は少なかったと考えられるのですが、校区全体が爆心地に
近いため、ほとんどが爆死または火傷死しています。
一家全滅の家庭も多かったそうです。

6月末に1581名の在籍が確認されていますが、被爆後、生き残った
児童は200人程度と言われています

【防空壕跡】

校長班は運動場の崖に18個目の防空壕を掘っている最中に、
教頭班は校舎からちょっと離れた本原の水田で除草作業中に被爆

命運を分けた班決め・・と言いたいところですが、防空壕を掘っていた
3人の教師が無傷で助かったのが奇跡で、あとは、即死か
わずかな日数生き延びたか程度の差に過ぎません。
(地獄と化した校舎内にも生き延びた教師が1人!)

※防空壕の奥から仮に1号、2号、3号とします。



【防空壕の説明板】

鳥のフンがすごくて

運動場が、防空壕にたどり着けなかった人の死体や身動きできなくなった
重症者で埋め尽くされていたそうですから・・。



【防空壕・1号】

2号は入口からコンクリートで塞いでありました。(3号未確認)



1号と3号は奥でつながっているそうです。

防空壕は南向きですので、原爆の爆風の直撃を受けます。
前出の生き残った教師の1人はとっさに防空壕に飛び込んだ後、
防空壕の1番奥の壁に叩きつけられたと証言しています。

外で作業をしていた教師は防空壕を掘っていた崖に叩きつけられて
即死だったそうなので、運命というのは、ホントにちょっとの差
なんですよね・・。



【平和の鐘】



【あの子らの碑(説明板)】



【あの子らの丘】

校舎内になだらかな丘があり、ここは祈りのゾーンとなっています。



【あの子らの碑】

おかっぱ頭でモンペをはき、原爆の業火の中でひざまずき、
天に向かって合掌している少女の碑。

永井博士の著書、被爆した児童の手記"原子雲の下に生きて"
印税によって建立されたものになります。

奥に"折りづるの碑"

右手に、"平和の碑"
"平和を"、裏"あの子らの碑"は、永井博士揮毫による。
※個性的な字、悪く言うと下手くそな字で、ちょっとビックリです



【運動場】

ここが、かつて校舎があった場所。
現在の校舎は、かつての運動場跡に建てられています。



【あの子】

長崎市にゆかりのない方は、さっきからずっと「あの子、あの子、って
あの子って一体誰だよ?」と思っていたに違いありません

永井博士作詞の歌に出てくるんですよ。
いわゆる原爆ソング?で、実は、私は字面でしか知りませんでした。
さっき、youtubeで確認したけど、曲も聴いたことなかったです。


さらに、ローカルネタが続いてごみんね汗
私が8月9日の平和集会で歌った歌は、"原爆許すまじ""青い空は"
"夾竹桃のうた"でした。
"青い空は"なんか、手話まで覚えさせられてたし。

しかし。
同じ小中学校通ってた4つ年下の妹(←通称なりすん)は、"あの子"
歌ってたと言うんですよ
(逆に、私の知ってる3曲を知らないと言うし。)

時代によるものか、担任の思想によるものか、ちょっとわかりません。



【被爆後の山里国民学校】

ほとんどの資料で、爆心地から700mとなっているのに、説明板には
600mとなっていますね。
これは、まぁ、運動場のあっちとこっち程度の誤差と考えていいでしょう。




【原爆資料室】

土日も含め、無料開放されている資料館。
説明員常駐。

主に、校内の被爆状況がパネルで説明してあり、永井博士の功績と
被爆した遺物(校舎建て替えの際出土した原爆の熱線で溶けた
ガラス瓶や壁など)、授業料を納めた証明書のようなものも
展示されてたと思います。
※写真撮影OKだったことに気づいたのは校舎を出てからでした



【昭和62年撮影の旧校舎】

G・Oさんにはこちらの方が懐かしいでしょう。

原爆遺構と言っても、防空壕と原爆資料室に残された階段の手すりの
一部(←これはホントに意味不明)しか残されていない!と、どっかで、
卒業生だか、被爆者の会だかの人が激怒していました。



【旧校舎全景のレリーフ】

平成6年に創立120周年を記念して作られた旧校舎の模型。
今年が平成27年なので、さらに20年経過、やはり、歴史の重みを
感じますね。





【シルバーカーで熟睡するネコ】

今は亡きみ~ちゃんと同じように、リードでつながれていましたよ(-∀-)



【長崎南山高等・中学校】

かつて、オヤジ様と弟が在籍。←要らん情報?

入口のところにデカデカと"人間の尊厳のために"という学校の
校訓が刻まれた碑があるのが素晴らしいと思いますキラきゅんっ



長崎県立長崎工業学校跡地だそうで、爆心地から約750mに位置し、
原爆により全校舎焼失、校長以下教職員29名、生徒192名が死亡、
行方不明6名という被害が出ています。

もう、この辺りは、どこもかしこもそんな話ばかりです
うさ。





G・Oさん、残念ながら、あまり郷愁には浸れなかったかもしれません。
思い出はいつも心の中に、甘美に・・、ということで

それはそれとして、健康のためにも、
ダイエット、一緒に頑張りましょう
(完全に私信になっとるがな!)