私がTwitterで旧客カフェの件で意見を連投しているのは、「無知なる善意」が利府町SLEL解体問題にも影響していたからだ。善意が意図せずして悪い方向に向かう事は往々にしてあること。そうならないであってほしい、同じ轍を踏まないでほしいとの一心で、長くはなるが改めて「公園車両」の扱いと併せて自身のブログに明記しておく。

 

例えば同じ「家」を建てるとする。

このとき「行政が建てる行政管理の家」なのか、「民間が建てる家」なのかで、まるっきり同じ建物でもコストが全く異なってくる。それは『血税』が扱われる以上、民間物件以上に品質安全管理が求められるからだ。

 

その行政発注のコストには直接工事費の他、そうした他のコスト(間接工事費)が的確に計上される。これがBtoG(企業と行政)の考えとなる。

 

これを公園車両に当てはめた時、公共のものでもあるにも関わらずボランティアが車両に携われるのは、残酷な事にも車両が「公園遊具扱い」だからこそなのだ。このとき人件費はボランティアが、場合によって塗料は行政が支給するというパターンもあり、一番低コストで市民が車両に携われるという事でもある。

 

このGtoV(行政とボランティア)の関係で成り立っているのが多いというのが公園車両の特徴だ。しかしBtoG(企業と行政)となれば前述の通り話は別。コストがまるで違う。それは行政発注の車両修繕費用が割高な事を見ればご理解頂けるかもしれない。

 

ここで利府SLELの件に話を戻そう。実は解体の話が出る数年前から「EL救済案」が鉄道愛好家団体から利府町に持ち掛けられていた。が、その話は自然消滅した。「人と金はどうするの?」という行政側の意見に鉄道愛好家団体らが閉口してしまったからだった。この時から行政サイドの鉄道ファンに対する不信感が生まれ負の連鎖を生み出していくこととなったと私は思っている。

 

そしてSLEL解体報道が世に出たとき、鉄道ファンでもない地元出身のママさんが発起された。ママさんは有権者たる地域の方々を行脚して周り地道に署名を集めていった。しかしその努力と真逆な力が「鉄道ファン」によって引き起こされていく事となる。

 

「地域の方々に鉄道保存の理解を得るために」開催したシンポジウム。ところがどういう訳か開催予告の新聞記事に会ったことも無い前述の鉄道愛好家団体が「車両の歴史的価値」について紙面で訴えた。しかしそのシンポジウムにはその愛好家団体は参加すらしていない。

 

そこから状況は悪化していく事となる。行政職員の方々と当初から顔を合わせて打合せしてきたのは利府町保存会の面々。一方で鉄道愛好家団体は行政との交渉テーブルにすらつこうとせず新聞掲載で歴史的価値を一方的に追及。今回の旧客カフェのような「行政VS保存団体」の構図が作られていった。

 

この事態にSNSの鉄道ファンらも加勢し行政を批判、まさに火に油を注ぐ状況となった。

 

さらにこの事を知った旧客カフェにボランティアで携われた方が利府町発起人ママさんに「見積書」を送られてきた。発起人ママさんは喜ばれ、その見積書を行政に提示。同席していた私はこの時初めてその見積を見た訳だが「マズい!」と思った。

 

善意で頂いた見積書は「BtoB(企業対企業)」または「BtoC(企業対一般消費者)」価格、すなわち間接経費が含まれていなかった。つまり安すぎるということ。案の定、行政担当者は「これ足場費用とかも無いしこんなんじゃできないでしょ」と一蹴。実は行政もかつて修繕費用について過去見積をとっていたことがあり、鉄道ファンの「無知なる善意」が悪影響を及ぼしてしまう結果となった。

 

 

 

今回の旧客カフェ騒動もまた鉄道ファンが行政を批判しまくっている。これは完全に北九州市行政から鉄道ファンが「腫れ物扱い」されたのは明白だろう。正論だけでは政治を動かすことが出来ない事すらも理解していない鉄道ファンの無知。SNSで世の中が良くなっているならばとっくに良くはなっているのだ。日本の民主主義はまだそこまで成熟してない。

 

何より私が残念に感じているのは、保存を求める方々が「市民にどんな公益性をもたらすか」を一切明記していないことにある。鉄道は公共交通機関、その功労が称えられて全国の公園施設に車両が保存された経緯・歴史があり、公地たる公園にあるからこそ「公益」を主目的にしない鉄道保存の訴えは鉄道ファンのエゴだ。鉄道の価値を最も理解しているはずの鉄道ファンがそれを率先垂範の行動を取らずして、誰がその価値を認めてくれると言えよう。

「木を見て森を見ず」、これは「車両を見て人を見ず」だ。

鉄道ファンが鉄道保存に関わるという事は、「人」を第一にして関わらなければならないという事を絶対に忘れてはならない。

 

鉄道ファンにしか理解されない活動だけでは鉄道ファンしか見向きしない。

市民に愛されて初めて公園車両は公的価値が認められ「市民権」を得る事ができる。

そこに今気づけるかどうかが全国の鉄道車両の命運を大きく分けていく事になるだろう。

人在りて鉄道存続なのだ。