【2023引退ブログ】

 

NO.1 阿部このみ

「3年半のきろく」

 

 

《プロフィール》

学年:4年

学部学科:経営学部経営学科

出身校(チーム):函館白百合学園高等学校(BP函館キルティ)

ポジション:DF

背番号:2

最近ハマっていること:あちこちオードリーを見ること

試合前に聴く曲:最近の推し曲は GLAYのBibleとRuby’s Blanketです

自己PR:小学生の時にじゃがりこが食べられなくなるのが嫌で矯正を拒んだ結果、とても素敵になった歯並び。

 

 

 

 

他己紹介:

 

三十路、あべこ、のみさん、委員長…色んな愛称でみんなに親しまれるこのみ。

 

ただ、私からみた第一印象は「チャラい」。

私が初めて練習に参加したときには、このみは既に先輩と仲が良く、「〜っす。」という語尾。

「怖いなこの同期、これが道ヤン(北海道のヤンキー)か。」と思ったのが始まりだった。

 

そして、「一生懸命、継続は力なり」などの言葉が嫌いで、「やらないときはやらない」という格言のオーナーであり、体育会に向いてなさそうではあるが、度重なる怪我に耐え続け、引退ブログを提出したみたいだね。ナイス!

 

普段は毒舌でサバサバしていて、口癖は「早く引退したい」だが、実は後輩からの誘いに喜んだり、チームの勝利に感動したりする一面も。

そんな一面を持っているから、「一生懸命」が大好物の正反対な私とも、仲良くなれたんだと思う。

 

昨年くらいからかな?ゼミの先生とのご飯や飲み歩きが頻繁になり家にいないことが増えたが、「家誰もいないけど勝手に入って〜番号は〇〇ね。」と考えられない発言をして、実家暮らし民の憩いの場にしてくれた、ありがとう。

 

一年生の時の恋バナをきっかけに私たちは仲良くなったがお互い相手はいない。それなのにこのみは「離婚をしたい」と言っている。夏には女子チームの後輩を連れ花火大会に行き、冬にはイルミネーションに行く予定も出来たね。笑

一生独身、ここが唯一の共通点かもしれない。

 

ついつい長々と書いてしまった。他己紹介が長くて読者を減らしてしまっていたらごめん。

こんなに長くなるほどプライベートでも部活でも本当にお世話になったこのみです。

皆様、是非ご一読ください!!!

 

飯田沙稀(4年/コミ福)

 

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 私とは正反対の“アツい主務”飯田沙稀よりご紹介にあずかりました、最近の好きな言葉は「なにもしないをしよう」経営学部経営学科4年(平社員)の阿部このみです。

 

 引退ブログと称しつつ引退日はまだ先で書き逃げできないことが少々気になりますが、なるべく赤裸々に書こうと思います。

 

 お手隙の際に、暇潰し程度に、お読みいただけたら嬉しいです。

 

 

【1.はじめに】

 日頃より応援してくださる方々、ご支援くださる関係者の皆様に心より感謝申し上げます。沢山のお力添えをいただいたおかげで、今シーズンから自動降格制度が導入され、厳しいと思われた関東大学女子サッカーリーグ(関カレ)2部に自力残留という結果を残すことができました。

 今シーズンは12月上旬まで東京都リーグ(都リーグ)1部での試合がありますので、引き続き応援していただけると幸いです。

 

 

【2.ブログを書くにあたり】

 初めて練習に参加した日から約3年半。何かを振り返る時、“長いようで短い”という言葉をよく耳にしますが、私にとってこの3年半はとてつもなく長く、薄暗いトンネルをゆっくり歩いているような時間でした。

 このブログはこうして表に出す必要はないかもしれませんが、未来の自分が大学時代を振り返る時のために書きたいと思います。思い出したことを連ねるだけなので皆さんにとっては読みづらいかもしれませんが、ご了承いただけると嬉しいです。

 以下、自己満足で思い出いっぱいの“きろく”を綴ります。

 

 

【3.記録】

-1年生-

 授業が始まる4月、1か月ほど上京していた私はコロナの影響で実家(北海道亀田郡七飯町/四捨五入すると函館)に戻りました。

 上は私服、下はパジャマで長時間PCの前に座り続ける日々。大学の友達ができないことで上京後の生活に不安を覚え、何かコミュニティに属して知り合いを作らなければ…と焦りを感じ始めました。そのため、とりあえず小学2年生から続けているサッカーを軸にSNSを漁り、DESAFIOのTwitterアカウントを見つけました。

 

 入部前に参加したオンライン質問会にはいずれ同期になる那美(4年/心理)もいました。生意気な私が「筋トレとランが苦手ですが、入っても大丈夫ですか」という変な質問を投げかけたのを思い出します。色々な不安はありながらも結局は入部届を郵送し、キャンパスにもグラウンドにも行かぬまま入部しました。

 

 入部から3か月後の8月、初めて練習に参加しました。志木組と朝霞台組の分岐点である100ローまで迎えに来て沢山話をしてくれた桃花さん(22卒)といのりさん(22卒)、練習中に「上手いね」と声をかけて握手を求めてくれた希奈さん(23卒)が特に印象に残っています。

 

 同期と初めて対面したのもこの時です。円佳(4年/コミ福/主将)と亜樹帆(4年/スポウエル/副将)と練習前後、「サッカー上手いね~」「そんなことないよ~」という気持ち悪い会話を繰り広げながらパスをしたことを思い出します。ついでに、沙稀と那美(4年/心理)はその後しばらくしてから出会ったと思います。

 沙稀はLINEのアイコンが中田翔(元日ハム4番/バモ北海道!)の印象が強く、練習に向かうバスで初めて会話をしました。捕捉すると、その日の練習でダイヤモンドユカイであることが発覚しました。

 那美との出会いはごめんなさい、いつか忘れました。強いて言うならオンライン質問会なのですが、気づいたら隣にいました。唯一覚えているのは新座キャンパスAグラウンドの駐輪場前でスパイクの紐を結びながら、“サッカー経験値が低い人がチームで何ができるのか”について議論したことです(真面目ですね)。

 

 話を戻し…初めて練習に参加した日の週末に練習試合が行われました。場所はあの懐かしき大宮けんぽグラウンド。半年以上ぶりの試合で体は動かないし、息が詰まるほど暑いし、この気温でサッカーをやるなんて関東はおかしいと思いながらプレーした記憶があります。

 突然右膝に激しい痛みがはしり、グラウンドに倒れ込みました。痛みが膝全体に響いている感覚で、ほのかさん(20卒/トレーナー)に「どこが痛い?」と聞かれても、「右膝の裏…でもないし、前…でもなく、膝の辺りです」という処置しにくい回答をし、困惑させてしまいました。今でもあの気まずさと申し訳なさを思い出します。

 

 翌日に病院に向かい、右前十字靭帯損傷と診断されました。上京から10日後、練習初参加から5日後の出来事でした。小学6年生の頃に階段を3段飛ばしで降り、左足首を骨折した(卒業式は松葉杖)こと以外大きな怪我をしたことがなかったため、自分でも驚きでしたし、両親にはとんでもない心配と迷惑をかけてしまいました。

 

 何をしていたかも覚えていない空白の1か月を過ごし、9月中旬に手術を終えました。入院中は授業やらリハビリやらに取り組み、意外と有意義な時間を過ごすことができました(2週間で体重が7kg減り、個人的には嬉しかったです)。

 

 リハビリ生活が始まります。練習では病院やほのかさんから与えられたメニューをこなし、試合では記録やビデオ撮影をする…常にピッチ外にいて注視されないことを良いことに、ピアスを開け、髪色を明るくしました。

 元々試合に出たいという気持ちがあった訳ではないので、リハビリのモチベーションは最初から低かったと思います。しかし一人暮らしだったこともあり、練習前後で人と話す時間は生活の中で最も楽しい時間でした。この人たちに出会えて良かった、部活に入って良かったと心から思いました。どんなに練習が憂鬱でも、会話をするために練習に行こうと自分を奮い立たせることができました。

 そんな状況でも優秀すぎる周囲の人たちに支えられ、怪我の経過は順調でした。

 

 チームへの帰属意識が芽生えぬままリハビリに突入し、試合を観客目線で観る日々が続いた1年でも、心に残っている試合が1つだけあります。

 関カレの中央学院大学(中院)戦です。1失点したものの、このまま最小失点で試合終了なるかと思った矢先のこと。90分、92分に連続2得点を許し、結果的に0-3で敗れました。試合後にいつも凛々しくチームを引っ張ってくれていた藍海さん(21卒)が涙を流して悔しがる姿を目にしました。藍海さんをはじめ、周囲はこんなにも熱い想いをもって練習や試合に臨んでいるのに対し、ポツンと私だけ体温が低いことに気が付きました。それと同時に自分がどんな状況であれ、藍海さんの涙を忘れずにいつか絶対に中院には勝たなければならないと感じました。

 

 練習に参加して約半年後、怒涛の1年目を終えました。

 

-2年生-

 ここで、優実さん(院2年/フィジコ)の登場です。当初はそのハードワーク具合に引いてしまい、私ごときが頼ってはいけないとなんとなく遠慮してしまうこともありました。「それが仕事だし、逆に言ってもらった方が助かる」というかっこよすぎる姿勢を見せてくれ、この人を頼りたいと心から思わせてくれたのが印象的でした。

 優実さんの手厚いサポートのおかげで、負傷から10ヶ月後の6月に関カレ初戦に出場させていただきました。入部後初の公式戦は当然うまくいかず、モヤモヤした気持ちで終えることになりました。しかし、何人もの先輩や同期、そしてスタッフの方が「このみおかえり!」と笑顔で声をかけてくれ、改めてこのチームが、この人たちが大好きだなと感じました。

 

 試合復帰から3週間後、ボールキープのメニューで右膝に違和感を覚えました。なんかやったわ…と思いつつ、これぐらいなら大丈夫と自己判断をしてプレーを続けました。次のメニューである1v1で、再び強い痛みに襲われました。

 その日、偶然私の家に泊まる予定だった緋菜さん(23卒)と沢山話をしました。身に覚えのある膝の痛みで大きな不安を感じていましたが、緋菜さんの存在のおかげでなんとか落ち着きを保つことができました。

 翌日病院に行き、2度目の右前十字靭帯損傷、加えて半月板を損傷していることがわかりました。手術への信頼を失い、健康だと思っていた自身の体への信頼を失いました。正直、さすがに早すぎじゃない?と呆れの気持ちが強かったです。

 違和感や痛みがあるならば、周りに流されず一度立ち止まる強さを持たなければいけない、それが自分を守る方法であると学びました。

 

 「部活を辞めたい」が口癖になったのはこの頃からです。そんなに言うならとっとと辞めろよと思っていた人もいるかもしれません。優実さんやリハビリでお世話になった先生には本当に申し訳ないのですが、週5の部活も毎週のリハビリも時間を浪費していると感じていました。メニューをやっても筋力はなかなか戻らないし、頑張っても仕方がない…元々のサボり癖がさらに加速しました。

 

 唯一の救いは学連の仕事でした。杏奈さん(23卒)に頼り切りだった仕事を少しずつ覚え、チームでの存在意義は学連の仕事だ!と無理やりにでも自分を納得させることができました。周りが学連の仕事を理解し、ありがとうを伝えてくれるような素敵な人ばかりだったからこそ部活での自分が成り立っていました。

 

 チーム内での役割が学連であると自覚した頃、関カレ2部3部入替戦を迎えました。相変わらずビデオ撮影係ではありましたが、亜樹帆のゴールや必死に相手に食らいつく仲間の姿を見て感銘を受けました。勝利したときは一緒に泣き、入部後初めて自分事として捉えることができた試合でした。それをきっかけに、私もこのまま腐っていても仕方がないと思い始めました。

 “いつか同期全員で同じピッチに立つ”

 ゆっくりでも良いからいつの日か達成したいと思う目標を掲げました。

 

 みんなと同じようにプレーできたのはたったの3週間でしたが、学連としての自覚と責任感を持ち始めた1年でした。

 

 

-3年生-

 この時期の話は去年のシーズンブログで詳しく書いているので、ここでは決意、涙、入替戦の3点を補足説明しようと思います。お時間のある方は下記URLから「3年目の新参者」(笑)をお読みいただけますと幸いです。

https://ameblo.jp/rikkyo-desafiofc/entry-12778150939.html?frm=theme

 

 2年生に引き続き、もがき苦しみながらもリハビリに取り組みました。気付けば季節は秋になり、2度目の受傷から1年3か月が過ぎていました。男子チームの知り合いに「ずっとリハしてね?」と言われるのも納得です。

 部活を続けるかどうか、このチームでサッカーを続けるかどうか、毎日考えました。都リーグの下位チームのHPを見て、緩くサッカーができる場所を探してみたりもしました。そして9月、選手として部活に参加するのは今シーズンまでにしようと決意しました。長すぎるリハビリを経ても高校までのように“普通に”プレーする未来が一切見えてこなかったこと、4年生になったらきっとやめられない、やめるならこれが最後のチャンスだと感じたこと、同期と同じピッチに立つという目標があっても頑張り切れない瞬間が続いたことが理由です。

 まずは一番お世話になっている優実さんに伝え、関カレが終わり次第幹部やスタッフ陣に伝えようと決めていました。優実さんにLINEをし、電話をし、スタバで色々なことを話しました。貴重な時間を使わせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、「次にやりたいことが決まっていないなら、とりあえずでもサッカーを続けてみたらどうか」という言葉がぼんやり心に残り、また時間をかけて悩みながらもスタッフ陣に意向を伝える前に選手を続けることを決めました。

 

  復帰したのは10月、全メニューに参加できていましたが、ゲームが怖い、試合が怖い…またいつ怪我をするのだろうと怯えながらプレーしました。「お前試合出る気あんのか!」練習中に水島さん(監督)に怒鳴られました。「ねぇよ!!!」と心の中で反発しつつ、怖さと不甲斐なさと申し訳なさが募り、半泣きで練習に参加しました。練習後、私の涙のトリガーである仏こと亜樹帆の「このみ大丈夫?」という言葉で号泣しました。初めて同期の前で涙を流しました。

 

 存在意義である学連の仕事には徐々に自信がつき、入替戦では上位チームとしてホーム開催をすることになりました。いつもとは違う試合前の流れ、男子チームの応援団対応、審判への対応など大忙しの1日で、初めてキャパオーバーを実感しました。最終的にみんなが勝利を泣いて喜ぶのに対し、真正面から若干理不尽な文句をめちゃくちゃ言われたことによる涙を流していました。みんなが喜びの写真撮影を行っている時も学連として動き続け、勝利の集合写真に私は写ることができませんでした。それに気づいてくれていた香帆さん(23卒)は、ブログにこのことを書いてくれました。すべてが救われた気がしました

 

 

-4年生-

「試合に出たくないです」

 シーズン初めに行われる水島さんとの面談でそう伝えました。怪我への恐怖が大きかったこと、現状のプレーでチームに貢献する自信がないという逃げの姿勢であったことが理由です。最終的に水島さんは「絶対に出すからな」と言いました。嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気持ちでした。

 

 4年生と言いつつも、平社員を選択した私はチームを引っ張るという自覚が特別あったという訳ではありませんでした。足りないものを補い合い、全員が各々役割を自覚してチームを作れたら最高だと思いました。

 私はチームの一番後ろに立ち、色んな人にちょっかいをかけたり、ちょっと背中を支えたりできるような人になれたらいいなと思っています。また、良いのか悪いのか八方美人であることを活かして色んな人の話を聞き、意見のすり合わせの手助けができるようになりたいとも思っています。結局、よく話す人は偏ってしまっているし、情けないですが自分のことで精一杯になっている時期はその意識すら薄れていました。引退まであと2週間、気持ちを入れ替えて頑張ります。

 

 今シーズンはピッチ内の課題も多くありましたが、個人的に今まで気にしたことがなかったピッチ外の課題が浮き彫りになりました。一言で表すと、人間関係の問題です。この問題から私が学んだ教訓は他人を憶測で語らないということ。ネットが発達している現代で週に5日以上も会っているのだから、もっとアナログな交流、つまり会話をしないともったいないと感じます。この人はこういう人というイメージがあったら、なるべくその本人と会話をして答え合わせをすることを心がけるようになりました。

 また、伝え方も非常に大切だと思います。どんなに素晴らしい意見や良い意味で感情的な発言でも、伝えるときの言葉、方法、シチュエーションなどにより相手が傷ついたり、まっすぐ受け取りたくないと思わせてしまったりする場合があると思います。伝える前に一度落ち着き、最善の伝え方を選択すること、もし間違った伝え方をしたとしてもフォローできる場を自分で設けることが大切なのだと気づかされました。

 

 プレーに関しては一時全メニューに参加していましたが、試合に出たいという気持ちは特にありませんでした。そんな中、右膝の力が急に抜け、膝崩れのような現象が起きるようになりました。そういえば友里那さん(22卒)もよく膝崩れが起きていたな…なんてことを思い出しながら、プレーを続行しました。しばらく経った6月、優実さんストップが入ります。半リハビリ生活の始まりです。

 少し練習に入ってボールを蹴り、対人やゲームなど怪我のリスクが高い練習の時は別メニュー。関カレで苦しい思いをしている同期や後輩には申し訳なく思いつつも、この練習の形は私とって適度に楽しく、過去一練習に参加しやすい時期でした。

 

 半リハビリ生活が始まって約半年後の今月11月、全メニューに復帰しました。先日は10分という制限時間ではありましたが、練習試合にも出場させていただきました。今後の部活のためにプレーできる後輩を差し置いて引退直前でボロボロの私が出場することの意義、私が出場することで周囲の人が喜んでくれる理由、今までの感謝を表現できる方法の模索などまだまだ向き合うべきことは沢山あります。最後の最後まで悩み続けると思いますが、残り2週間という期間を大切に過ごしていこうと思います。

 

【4.記録を振り返って】

 私の薄暗いトンネルはいかがでしたでしょうか?真っ暗闇のトンネルだったはずが、沢山の人達が照らしてくれたおかげでなんとか前を向いて歩くことができました。

 本文では主に自身のことを書きましたが、膝の怪我を経験した“膝―ズ”とのひとつひとつの思い出、先輩・同期・後輩・スタッフとの関わりなど、書ききれないほどのエピソードで溢れています。こんなにも濃い大学生活を送れたのは間違いなくこのチームに所属し続けたお陰です。体育会に向いてない、士気下げまくりのこんな私をチームに置いてくれた皆さん、本当にありがとうございました。

 

「サッカーは生涯スポーツ」

 この言葉に昔から疑問を抱いたことがなく、これからもサッカーを続けるのだろうと思い込んでいました。しかし最近、練習に参加する中で膝や体の限界を感じるようになりました。怪我を経てプレーし続けることはかなり難しく、覚悟がいることだということに気付かされました。今の自分にその覚悟がないことは明白で、今回の引退を機に15年間のサッカー人生を終えることを決めました。今後はプレーとは違った角度でサッカーと関われたら良いなと思います。渋谷にあるWEリーグ情報発信拠点でのアルバイトをやってみたり、サッカー観戦に行ったり…すでに色々挑戦を始めています。今後、社会人になっても身近に大好きなサッカーがある環境を作っていきたいです。

 

【5.おわりに】

 この3年半、私という人間は沢山の人に支えられて成り立っているのだという当たり前でとても大切なことを改めて感じられた時間でした。短文ではありますが、お世話になった方々にここで感謝を述べたいと思います。

 

―水島さんへ―

 毎日ハードスケジュールをこなしながら、愛情深くアツく指導してくださり、本当にありがとうございました。詰めるわけでもなく見放すわけでもない適度な距離感がとても心地よかったです。また、一人一人と真剣に向き合い、必ずチャンスを与えてくれる、その指導方針がとても好きでした。残り2週間、改めてよろしくお願いします。

 

―ふーさん(コーチ)へ―

 今年1年間という短い時間でしたが、沢山お世話になりました。ふーさんは立教らしさを尊重しつつも新たな風を吹かせ、このチームが少しずつ変化するきっかけを作ってくれたと思っています。個人的には怪我やリハビリのことも気にかけていただき、本当に感謝しています。残り2週間会える回数も少ないですが、何卒よろしくお願いします。

 

―優実さんへ―

 私の大学サッカー人生は優実さんなしでは語れません。最初から最後まで毎日毎日本当にお世話になりました。2度目の怪我の時、部活を辞めると言った時、試合に出ることの葛藤を吐露した時…優実さんの言葉はいつも心に沁み、今でも思い出します。怪我のことだけでなく、精神的な部分まで助けていただき、本当にありがとうございました。

 

―菫へ―

 つい最近ご飯に行き、アツい言葉で私をBADから救ってくれた菫。間違いなくチームにも、そして私にとっても欠かせない存在です。唯一無二のマネージャーだと心から思います。毎日本当にありがとう。これからも女子チームの一員としてチームを支えてくれることを願います。またご飯行こうね!

 

―安松先生へ―

 入部当初、私のプレーを評価してくださっていたと人伝に聞き、とても励みになりました。グラウンドでお会いする時は怪我の経験を交えてお話ししてくださり、リハビリに取り組む姿勢を律するきっかけをいただきました。チームとしても個人としても大変お世話になりました。ありがとうございました。

 

―櫻井さんへ―

 気を遣わずに言うと本当に女子チームにいたのか?と思うほど影が薄れている櫻井さんですが、チームにおける初心者やベンチメンバーの重要性を見出し、はっきりと言葉にして伝えてくれたことは今でも頑張る理由の1つになっています。本当にありがとうございました。また見かけたらいじりますのでぜひ相手してください。

 

―ほのかさんへ―

 最近はなかなかお話しする機会もなく、ストーリーで近況を知る程度ですが、入部当初はかなりお世話になりました。怪我の直後で右も左もわからない時、ほのかさんがいなかったらどうなっていたか、今考えるととても怖いです。忙しいとは思いますが、ぜひまた試合見に来てください!

 

―同期へ―

 干渉しすぎず、見捨てない。そんな距離感を保ちつつ、互いを尊重することを忘れない。居心地がよく、心から最高の同期だと思っています。来年からは全国各地に散ってしまうけれど、オリンピックの頻度くらいでもいいから全員で会おうね。

 

―両親へ―

 きっと一生使っても伝えきれないほどの感謝があります。進学もサッカーもその他も、私の意志を尊重し、支えてくれてありがとう。色々な経験をさせてくれてありがとう。お陰様で私は今、とても幸せです。2人をはじめ家族のみんなにはこれからも沢山お世話になると思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

後輩へ、手紙書きます。

 

 

 

 

 

 

 

引退まであと14日。

 

 

 

 

 

 

 

 

お気に入りの写真(右から2番目)

 

 

 

 

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川嶋那美(4年/MF)