ドイツに住んでいると
日本にいるときより若干不便だ。
御飯は目を離すことなく鍋で炊かなきゃいけないし
ワケの分からない食品とは実験の毎日だし
どこへ行くにも携帯のウェブが使えないから
事前に調べて行くか、人に聞きまくるか、迷子になるしかないし。
コピー機もないから全て手書きでやらなきゃいけないし。
100均で手に入るような簡単なものも何かで代用しなきゃいけない。
とにかく工夫の毎日だ。
でもそんな生活に身を置いて初めて気づくことも沢山ある。
みりんって何からできてるんだろう。
お好み焼きソースは?和菓子は?
それって自分で作れる?
もともとそれはどういうきっかけで日本に生まれたんだろう?
そもそも日本のもの?
あたしそれ、説明できない。
そういった日常に当たり前にありすぎて
気にも止めなかった存在たちが
気になって気になって調べては発見の毎日。
醤油のルーツやソースの歴史。
それを作るために結構手を焼くこと。
だけど作れないわけではないということ。
そうして思い知ったのは、
少しくらい不便な方がいいということ。
自分で考える。
思いついて行動に起こして失敗して
また考え直す。
道に迷って途方に暮れて人に聞く
助けてもらう。優しさに触れる。
同じ境遇の人を見たらきっと力になろうと心に誓う。
時間のないときには絶対にしなかったであろう
様々な工夫を考えついては実践する毎日に
ワクワクしている。
日本人はきめ細やかで丁寧だ。
そんな国民性と技術力のおかげで
生きていく上で必要だと思われること以上の便利さと快適さは
もうすでに生活の中で当たり前になっている。
そんな生活を当たり前とし
おまけに国民は社会や政治よりずっと偉そうだ。
いつからこんなにも自己責任を
企業や教育、公共、医療機関など自分以外の負うべきものに
すり替えたのだろう?
便利さに身をゆだね過ぎているのか。
自分でことを成すことに
億劫になってはいないだろうか。
自らが望むことを自らで考え、選び、
自らが決めているだろうか。
自分を信じて、自分の責任を負い
自分で道を歩いているだろうか。
今、自分のことを心から信頼し
自分のことを誇りに思い、大好きだと言える日本人は
いったい何人いるだろうか。
流されていないか
自分を自覚しているのか
自分のために生きているか
ドイツにいればいるほど
私は日本が心配になる。
どこへ向かっているのだろう。
何を求めているのだろう。
その根源はきっと国民で、
それぞれが目的のないまま流されて流されて
流れ着いた島で周囲に責任を押し付けて
カラに閉じこもる。
そうやって発展しているようで
停滞している。
便利さに飲み込まれ、
それを当たり前として生きていくのは怖い。
ドイツという国の極端なまでのメリハリと
明確な人生の目的。
同じ先進国、そして日本に似ていると言われているこのドイツ国で
数々の「羨ましさ」に出会った。
もちろん日本が一番好きだ。
素晴らしい国民性や習慣、歴史を誇りに思う。
だからこそ日本を想うと
喉に小骨がひっかかったような気分になる。
便利さに、
楽をすることに
慣れてはいけないのだと思う。
